2022年3月21日月曜日

成田氏発祥地 成田氏館跡と菩提寺 龍淵寺(なりたしやかた、りゅうえんじ:埼玉)

◆成田氏館
埼玉県熊谷市上之544
成田氏館

成田氏と云えば「のぼうの城」の忍城ですが、それ以前の成田氏の発祥の地とされるです。
成田氏館址碑

ココは私有地のようで柵に囲まれて中へは入れません。
右方には牛小屋があります。
案内標柱

ココは城跡石碑は城址となってますが・・・
サイドに成田氏館の案内も書かれています。

Wikipediaによると出自藤原氏説武蔵七党横山氏の流れの説が有るようです
西から館跡
 
ぐるりと廻り込んで龍淵寺へ向かう途中から方面を見る。
周辺は起伏が無いため、わたしの想像では低湿地に守られていたのではないか?と思っています。
成田氏館石碑前の道路は一方通行なのでクルマの場合この順路しかありません! 
R17号(熊谷バイパス)下り線からを過ぎ次の「上之」交差点直前一方通行左折する

*手前に「上之(雷電神社)」交差点が有りますが、その次の「上之」交差点です。

過去Blog:

JR高崎線、湘南新宿ライン秩父鉄道熊谷」駅下車、北東へ徒歩35分
国際十王バス利用「熊谷」~「宿裏」バス停下車、徒歩6分
駐車場:なし(路駐で碑だけ撮りました)
トイレ:なし


◆龍淵寺
埼玉県熊谷市上之336
龍淵寺参道

成田氏館の北、R17号線を越えた先に成田氏の菩提寺 龍淵寺があります。
龍淵寺由緒書

龍淵寺成田左京亮家時応永8年(1411)に建立
成田五郎家時の墓所

五郎家時成田家中興の祖と云われています。

残念ながら、成田氏歴代の墓所の撮影失敗しました~泣
鐘楼

鐘楼2010年建築ですが、梵鐘は寛文年間成田氏長没後200年を機に鋳造されたとそうです。
燈篭(部分)

東京 上野東叡山 寛永寺にあったものでしょうか??
由緒書きによると龍淵寺徳川家康との縁があるそうなので気になったので撮ってみました。


JR高崎線、湘南新宿ライン「熊谷」駅下車、北東へ徒歩40分。
国際十王バス利用で「熊谷」~「龍渕寺前」バス停下車 すぐ。
駐車場:あり
トイレ:あり

近くには、東南東に皿尾城忍城行田館兵衛尉館。南東に石田堤

2022年2月28日月曜日

源義朝館跡、扇谷上杉管領屋敷跡、道灌邸跡(みなもとのよしともやかた,うえすぎかんれいやしき,おおたどうかんてい:神奈川)

◆源義朝邸跡・寿福寺
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7
参道

鎌倉五山 第3位、風情のある参道が人気の寿福寺、元々ココには源頼朝の父 義朝が存在したと場所と伝わっています。

この参道は歩けますが特別公開日を除いて参拝は不可です。
寿福寺案内板

寿福金剛禅寺開基は北条政子開祖は栄西
源実朝も幾度となく訪れたお寺です。
脇から源氏山のハイキングコースにまわると北条政子源実朝お墓があります(近くに太田道灌お墓も)。
寿福寺境内案内

当初 源頼朝はココにを構えようとしますが義朝の菩提を弔うお堂があると聞きやめたそうです。

源義朝館跡・寿福寺 MAP




◆扇谷上杉管領屋敷跡
神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-4-3
横須賀線超しに石碑

英勝寺側から撮影。
写真の更に右方の踏切を渡ればすぐの着きます。
後ろの広いところはお寺となっています。
扇谷管領屋敷跡石碑

4上杉家のうち扇ガ谷屋敷を構えたのが扇谷上杉家です。
その名の通り谷筋にあります。 
管領屋敷跡から太田道灌邸跡・英勝寺

今はJR線路が目立ちますが、谷筋の小河川を隔て扇谷上杉屋敷と太田道灌邸が向い合う形で建っていたのであろうと想像します。




◆太田道灌邸跡・英勝寺
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3

次は扇谷上杉家の家宰である太田道灌邸を構えていたところです。
扇ガ谷付近は、古くは源義朝の館室町時代扇谷上杉家屋敷太田道灌の館鎌倉の中でも高級住宅街であると思うところです。

英勝寺

右端に太田道灌邸旧跡碑が見えます。参拝入り口は右手から。
太田道灌邸跡石碑

英勝寺の裏山太田道灌の墓所がありますが寺域では無く源氏山ハイキングコースから行けるようです(数十年前に源氏山に行きましたがよく覚えてない!)。
英勝寺案内板

英勝寺開山徳川家康側室であった お勝の方でありますが、
家康没後に落飾し英勝院となり、先祖の古地を賜わって英勝寺を建立。 徳川頼房の養母となった関係から水戸家の庇護をうけております。
仏殿

仏殿阿弥陀三尊像運慶作と伝わります。
竹林と書院

現在の鎌倉唯一の尼寺唐門仏殿鐘楼祠堂ナド当初の建物(重要文化財)が残り江戸初期の風情が垣間みえるお寺です。小規模ですが竹林が美しいと評判になっています。

お勝の方(お梶の方):太田道灌の4代の孫 康資の娘。徳川家康側室となり関ヶ原合戦に馬上で同行、さらに大坂の陣にも従軍。
「お勝の方」の名は従軍時に戦に勝つといった意味合いだそうです。
お勝の方の駕篭の席次は春日局より上位であったそうで、家康にとって側室に止まらず有能な秘書としての役割を担ったようです。

JR横須賀線「鎌倉」駅下車、北へ徒歩10分 


過去Blog
2011/9/5 2つの波多野城(源実朝公紹介あり)

駐車場:近隣のコインP
トイレ:寿福寺参道手前にあり。

2022年2月2日水曜日

鎌倉歴史文化交流館で「北条氏展 vol.1」(ほうじょうしてん:神奈川)

神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-5-1
鎌倉歴史文化交流館入口

鎌倉歴史文化交流館の「北条氏展 vol.1 伊豆から鎌倉へ ー北条氏の軌跡をたどるー(会期2022/1/4~3/26)」にやって来ました!
今回のvol.1では、伊豆鎌倉発掘された遺物歴史資料ナドを展示
「鎌倉殿の13人」安達盛永案内板

入ってすぐ左に「鎌倉殿の13人安達盛永の関連箇所の案内板が建っています。
ココは安達盛長の孫の安達義景屋敷地であり傍らに無量寿院(廃寺)を建立した。
北条氏展ポスター

vol.1のあとも vol.2「鎌倉武士の時代」vol.3「北条義時とその時代」vol.4「北条義時の子供たち」と続きます。
物指・墨壺

左、物指 (武家屋敷と思われる個所から出土)
右、墨壺 (東大寺南大門の梁の上から見つかった墨壺や中世の絵巻に描かれているものに似ている。)
白磁四耳壺

大蔵幕府跡の辺りから出土和賀江島湊の繁盛振りが偲ばれます。
大蔵幕府鎌倉初期の幕府所在地
永福寺出土柱

永福寺(廃寺)は源頼朝が建立
VR体験あり。
鎌倉闘諍録(複製)

複製本ですが本物は鎌倉歴史文化交流会館蔵書
吾妻鏡

左、江戸時代の写本
右、北条本(複製)。 小田原北条氏から黒田孝高に贈られたもの。
鎌倉市内の出土物

左、青磁(大蔵幕府推定地から出土)
右、かわらけ(鎌倉各所から出土)

この他、伊豆の韮山駅前韮山文化センター韮山劇場隣接して鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館がOpenしています。

◆常設展
VR永福寺体験案内

既に廃寺になった永福寺VRグラスで体験できるコーナーです。
VR永福寺体験コーナー

宇治の平等院や平泉の毛越寺のような浄土庭園を持つお寺。谷隘なのに広々とした須浜をもつ寺でした。
赤絲縅大鎧(畠山重忠所用大鎧写)

武蔵御嶽神社畠山重忠が奉納した大鎧レプリカ
本物は青梅市御嶽神社宝物殿で見られます。
無量寿院庭園跡

安達氏建立無量寿院(廃寺)がありました。 歴史文化交流会館裏にはその庭園跡があります。鎌倉 瑞泉寺の様な庭園だったと云われています。

この他、伊豆韮山駅前韮山文化センター韮山劇場隣接して鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館がOpenしています。

✳︎注 日曜・祝日休館

過去Blog

JR横須賀線江ノ島電鉄鎌倉」駅西口下車、北北西に徒歩6分
駐車場:なし
トイレ:あり

2022年1月15日土曜日

悲劇! 伊東の八重姫と侍女たち。 女塚(おんなづか:静岡)

静岡県伊豆の国市浮橋1600-75
2022年大河ドラマ鎌倉殿の13人」が始まり、第1回目に源頼朝伊東八重姫がでてきましたが、その八重姫に関する史跡となります。
頼朝伊豆の流刑地伊東祐親である八重姫との間に男子を生ませました。 それを知った佑親によって頼朝は襲われ、生まれた子供も殺してしまいました。

女塚 案内板

逃げた頼朝北条領に潜伏。 八重姫侍女6人を伴って源頼朝のもとへ走りましたが、既に頼朝北条政子と結ばれており、ショックをうけた姫は入水自殺!
悲願にくれた侍女らは女塚の辺りで殉職しました。地元の方々が彼女らを悼んで建てたのがこの女塚です。
 また、いろいろな話があり、
八重姫は再嫁させた、子供は殺さず逃がしたナド所説あります。

*訪れたのは昨2021年になります。

過去Blog Link:
2020/4/29 伊豆の河津氏館(曽我兄弟の父 河津三郎館)

駐車場:あり
トイレ:駐車場にあり

近くには、北北西に韮山反射炉北条氏邸跡堀越御所跡守山城。北西に蛭ケ小島韮山城山木兼高館跡江川太郎左衛門邸、ナド

2021年12月27日月曜日

八王子市 大久保石見守陣屋跡(おおくぼながやすじんや:東京)

東京都八王子市小門町82(産千代稲荷)
北から産千代稲荷神社

横山氏館跡滝山城500年記念講演会のあとは大久保長安陣屋跡にやって来ました。
産千代稲荷角に「大久保石見守長安」の看板発見!

一般的には、
大久保長安の父親の大蔵信安上方から甲斐に移り武田家のお抱え猿楽師となる。
その子の長安信玄に才を見出され武士になり大蔵から土屋へと改姓金山開発ナドをしていたようです。
武田家滅亡の前後に徳川家に仕え、更に大久保へと改姓。
天正19年(1591)八王子8000石所領(実質数万石)を与えられ陣屋を構えました。

家康武田遺臣多摩に集め八王子五百人同心(のち千人同心)を置きます。
これには長安武田遺臣を束ねさせ武蔵甲斐国境を防備する目的があったと思われ、実際に明治維新の際に新撰組ナドを甲府城に差し向けたのが興味深いところです。
産千代稲荷神社

この産千代稲荷大久保永安陣屋南西に位置すると云われています。
産千代稲荷神社前の案内板

佐渡金山石見銀山に関わり大和代官甲斐奉行石見奉行美濃代官佐渡奉行伊豆奉行ナドを勤めるほど家康から信頼されていたようです。
大久保長安事件:権力を持ち過ぎ疎まれたのか?不正蓄財した為か? 長安死後に一族や与親だった小田原藩 大久保忠隣他が連座で取り潰しになるほどの大事件になりました。権力者の悲しい末路ですね。
朽ちかけた「大久保長安」看板から小門公園
東京都八王子市小門町77-1(小門公園)

産千代稲荷の西方の小門公園に「周辺のみどころ案内板があります。
公園そのものは陣屋跡ではなく撮影者の手前(東側)にあったようです。
小門公園にある案内板

武田信玄 松姫(信松尼)が開基信松院も載っています。
また、正徳4年(1714)製の帆に武田菱が付いた軍船のひな形模型 2艘を所有しています。
小門公園の案内板

新旧地図を見比べても縮尺と歪みで判読が難しくお寺ナド番号がふってある箇所を頼りに見るしかないですね。
古図では③信松院④金剛院は同じ通りに面していますが現在はズレています。これはどちらかの寺域が減少したかと思います。このお陰で陣屋特定が余計に難くなっています。
気になるので こんど資料館ナドで尋ねてみようと思います。


JR中央線八王子」駅下車、西へ徒歩18分
 同 「西八王子」駅下車、東へ徒歩16分

近くには、

2021年12月8日水曜日

八王子市の 横山党館 と 滝山城築城500年記念「歴史講演会」(よこやまとうやかた、れきしきねんこうえん:東京)

◆横山党館
東京都八王子市元横山町2-15-27
八幡八雲神社

JR八王子駅から徒歩10分程のところに八幡八雲神社があります。
そこに武蔵七党横山党がありました。
八幡八雲神社由緒

天慶3年(940)に小野義孝武蔵権守として武蔵国府に赴任、その後この地に永住横山に改め武蔵七党の一つ横山党の始祖となりました。
横山神社

鎌倉幕府で勢力があった横山党ですが、和田合戦で親類の和田義盛に与し衰退してしまいます。
横山神社由緒

八幡八雲神社と同じ境内にある横山神社横山党始祖 小野義孝を祀っています。
横山党根拠地 案内板

蛇足ですが、過去のBlogで書いた町田小野路城の辺りもかつて小野氏の領地であり小野神社も存在します。





◆滝山城築城500年「記念講演会」
東京都八王子市本町24-1
八王子市芸術文化会館 いちょうホール

横山党館に寄ったあとに講演会
関東屈指の名城 滝山城 -その魅力と城主 北条氏照-
講師 小和田哲男氏 を聴講してきました。
階段を上がると甲冑武者たちの出迎えが!

写真は正面からでは無く後方からです。あしからず”!

今回の定員は700名でしたが開始前には空き席を探している方が見られ ほぼ満席でした。
レジュメ

・「滝山」の文字の初見永禄5年(1562)の氏照朱印状である。

滝山築城永禄5年(1562)か永禄6年(1563)とみられ、それ以前の大石氏の時代からあった城・砦を強化したものとおもわれる。

・話の中で、小田原北条氏の第一人者の下山治久氏は学生時代に「自分は北条氏照を研究するから小和田氏に北条氏邦をやれ」といった話は興味深いところでした(下山氏は1学年先輩とのコト)。
会場でいただいたリーフレット

右、「滝山城 城攻めマップ」は滝山城縄張図入り。
中、「戦国八王子の山城歩き」は八王子城、滝山城、高月城、根小屋成、浄福寺城、片倉城ナド市内の縄張図が入っています。
左、の「マンガでわかる 滝山城」はweb上でも読めるようです。
これらを片手に縄張りを確認しながら城廻りをすることができます。

滝山城築城500年のH・Pも開設されています。

JR中央線八王子」駅下車、北西に徒歩10分
京王電鉄京王八王子」駅、西北西に徒歩11分

近くには、西南西に大久保長安陣屋跡。がある。