2011年7月30日土曜日

三大山城の一つ 高取城 (たかとりじょう:奈良)

奈良県高取町 国指定史跡
高取城は標高538.9mにあり、城下の札の辻からでも比高446mあり、美濃岩村城・備中松山城と並び三大山城に数えられます。

南北朝時代南朝方越智邦澄高取貝吹山に築城したのがはじまり。
大和郡山城豊臣秀長重臣 本多利久が城主となり大和郡山城支城として機能しました。

 関ヶ原の戦い本多氏は東軍であったため西軍に攻められましたが留守居衆だけで天嶮の要害に頼り撃退したようです。本多氏に継嗣がないため替わって植村氏が入り明治維新まで続きしますが、幕末天誅組の乱ではまで攻め寄せましたが1/5の兵200で撃退しました。
 大和郡山城から奈良つながりで高取城、前回と同時期(数年前)の写真になります。
時間がないので大手から徒歩ではなく、クルマにて壺坂寺脇を通り壺阪口門跡か入りました。
侍屋敷石垣をみながら上っていくと埋もれかけていた石垣もだんだんと高くなっていきます。 特に中心部の石垣は圧巻です! よくもまぁ、こんな高所に石垣を組んだものだな~ 

 と、 関心し、写真を撮りつつ、大手を降りていくと、、
高取城に来る目的の一つであった猿石君がおどけた顔で待っていてくれました! ココに置かれている経緯はわかりませんが石垣に組込まれなくてよかったよな~ とシミジミ


その後まわった国見櫓跡からの眺望は格別でした、夜景も素晴らしいようですが下山時はかなり危ないでしょうね。  まぁ、機会があればトライしてみたいとおもっています。



個人的には、国見櫓から「大坂の一大事」を監視でき、
事あらば吉野から東へ安全に抜けることができる(壬申の乱で大海皇子が吉野から美濃へ逃れ挙兵を遂げたコース)要衝であるのではと感じています。

城下長屋門ナドが残っています。また秋に高取城祭りも行われます。
高取町観光協会 
高取城CG再現プロジェクト(奈良産業大学、鳥瞰CGがみられます)

高取城 MAP電車 :近鉄 吉野線「壺阪山」駅下車。 徒歩で城下経由で1時間30分か?。 或いは バス利用で「壺阪寺前」下車 徒歩50分。

駐車場:町中の駐車場へ入れ徒歩。 壺阪寺のPから徒歩(お参りしてから登城しては?)。 本丸近くの七ツ井戸下に数台駐車できるらしい要確認トイレ :
近くには、北に大和郡山城筒井城多聞山城。 北西には信貴山城

日本100名城スタンプは城下の夢創舘に設置 (月曜は休舘日のため、予めスタンプした紙を館前に配置)

2011年7月16日土曜日

大和郡山城 (やまとこおりやまじょう:奈良)

奈良県郡山市城内町2(郡山城址公園) 県指定史跡

城主は筒井氏であったが、大和大納言 豊臣秀長が 大和紀伊和泉など100万石で入城。 豊臣秀長->秀保のあと、五奉行増田長盛居城となる。
ところが関ヶ原の戦いの責めを負って改易
その後は何度も城主は変わり、最後の城主は1724年に柳沢吉里甲府城からの移封されました。

今回は、以前の写真で恐縮です。
クルマをとめ、復興と復興追手門の写真を撮りはじめると、
通りかかった地元の方が「お兄ちゃん写真を撮ってやろう!」 とゆうのでカメラを渡して撮ってもらうと、最後に「ここは柳沢15万石の城だからゆっくり見てって~!」 といってました

 ありがとー オジさん!

柳沢氏は明治維新まで140年近く大和郡山を治めていたので地元に根付いていうようです。

本丸には柳沢神社(祭神は柳沢吉保)が鎮座し、その奥の天守台には伝・羅城門礎石石仏などの転用石が組み込まれています。
支城高取城猿石があるように、酒船石の欠片なんかも何処かに埋もれているのでしょうかね~?
 郡山高城内学舎側の遊歩道をぐるりと歩き、主郭部の石垣をの深さナドみながら歩くのもいいですよ。  これらが整備されたらいい眺めになりそうです!  また、3月に大和郡山お城まつりが開催されます。







柳沢文庫(月、祝 休み):毘沙門郭にあり、柳沢家からひきつがれた資料や書物を展示。

永慶寺(城址南):郡山城主柳沢家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替えの際に移転、いまある山門は城門を移築したもの。
市民会館(旧奈良県立図書館)に郡山城の模型あり。
大和郡山市観光協会HP
大和郡山城 MAP
JR関西本線郡山」駅下車 西北西へ1.1km 17分 (追手門まで。駅-城址間が城下町です)
近鉄 橿原線近鉄郡山」駅下車 徒歩 北へ徒歩700m 9分 (追い手門まで)
駐車場:あり  追手門前に駐車できたはずです、念のため確認してください。
トイレ :あり

近くには、南に筒井城、さらに南に高取城。 西南西に信貴山城。 北東に多聞山城があり