2009年8月29日土曜日

洲本城 (すもとじょう:兵庫)

兵庫県洲本市
大手側 
登り石垣
築城したのは三好氏の重臣 安宅治興で。織田信長に圧迫されると1581年に安宅信康は本拠由良城羽柴秀吉らに明け渡し、洲本城も開城となった。
1582年、淡路に仙石秀久が入り石垣の城を築きはじめる。ところが久秀は九州攻めで失態を演じ蟄居させられた。
変わって脇坂安治が淡路を治め、水軍の城として拡張し、いまのような形態になったようです。その後、蜂須賀至鎮の家老の稲田氏が洲本城代となりました。


さて、城址ですが
三熊山(133m)を主要部分とし、麓の居館跡は今は庁舎や住宅ですが、淡路文化史料館検察庁家庭裁判所の前には堀と石垣が残っています、しかも堀であったと思われるところに足湯がありまして私は迷わず浸かりました。

城郭の本でこの模擬天守の写真を見せられつづけてきたので、私の中では他愛も無い城と位置付けておりました。
ところが! 本丸をはじめ各郭の見応えある石垣、西の丸武者隠しの広い平場、日月池、登り石垣ありで高得点です。
残念なのは町からでも よく目立つ模擬天守(昭和3年築)、これがまったく色気の無いもので 城址を台無しに・・・
おそらく訪れたことの無い方は城そのもの低評価でしょう!?

南側は車道が通り、大手門跡馬屋の駐車場のところにとめると、「本丸4分」と案内板がありますが、
現地案内図に載っていない西の丸や麓からの登山道途中にもチョクチョクと石垣&郭(平場)があるので、時間がある方は居館部の裏から徒歩でを登ってみてください。

洲本城 MAP
駐車場、麓(洲本八幡神社など)、山上の馬屋

2009年8月23日日曜日

石川重政屋敷 (いしかわしげまさやしき:神奈川)

神奈川県横浜市戸塚区上矢部町690
遺構わからず!?
徳川家康が関東にきてからこの辺りは石川重政の知行地なり館を構えました。
ところが後に罪科に問われ、現在の東京都中央区佃に幽閉されてしまいました、故にこの幽閉地が石川島となり、石川島播磨重工業の名称の元となっています。

現在の館はかもめプロペラの工場周辺は開発されてしまって何も残ってないように見受けられました。
何か御存知の方はいらっしゃいましたら教えてくださいまし!

石川重政  館地図
駐車場:なし

2009年8月19日水曜日

小諸城 (こもろじょう:長野)

長野県小諸市丁314
三の門
説明を追加
二の丸にしては狭いのでは?
鍋蓋城のところで書きましたが、長亨元年(1487)大井光忠鍋蓋城(大手門の西側)を、その子 大井光安の代には乙女城(現、二の丸付近)を築きました。大井氏は滅亡後は武田氏の物となり、武田信玄の命で山本勘助の縄張りでこの2城を取り込んで小諸城を築城したと伝えられていてます。
本能寺の変が起こると北条氏が占領しましたが、豊臣政権下で仙石秀久が改修して現在の形になりました。

城内地城下町より下方にあるため穴城と呼ばれ全国でも珍しい構造になっています。

説明を追加
懐古園内図

小諸城は好きな城址の一つ 前回、訪れたのは?0年前、あの頃は長野新幹線も無く急行電車できたなぁ~、
ココに立つとあの頃のように島崎藤村の「小諸なる古城のほとり・・・」
 の一節が頭をよぎります。
当時は入園料の徴収は無く、大手門は閉ざされていて住宅街にひっそりと埋もれていました。

小諸城 地図
小海線、しなの鉄道「小諸」駅下車すぐ。 駅の南側が三の門です。

2009年8月18日火曜日

上田城 (うえだじょう:長野)

長野県上田市二の丸 付近

真田石は櫓門の門前
云わずと知れた 真田氏の上田城
徳川軍を2度も翻弄した城なので一時は破城されていました。
西櫓、現存
関ヶ原後は真田信之は徳川に遠慮して城に入らず館(上田高校のところ)で政務をとっています。

本丸から上田駅方面
現在の石垣など城の元は仙石氏が築いたようですが、原型は真田氏の縄張りに沿っているようです。
南側は石垣と崖であり、その下には千曲川の支流尼が淵を天然の堀とし、残り三方は二重に堀をめぐらせています。


*第一次上田合戦 徳川氏・北条氏・真田氏との間で領土問題が起き攻寄せた徳川軍を撃退しました。
*第二次上田合戦、真田昌幸・幸村信繁)父子は関ヶ原の戦いで西軍につき、孤立無援ながら西上する徳川秀忠と東軍諸将の大軍を一手に引受けましたが、関ヶ原で西軍が破れ敢無く開城しました。
城跡公園図
もっと深かったと思われます。











○上田城櫓門(南櫓上田城跡公園内)城の模型あり。
○上田市立博物館 (二の丸3番3号)甲冑や昌幸の肖像があります。
○山本鼎記念館 (二の丸3番4号)
 南櫓、博物館、鼎記念館 3館共通券 一般\250 高校以下\180

○池波正太郎真田太平記館(中央3丁目7番3号)
 一般\300、高校生以上\200

上田城 地図
長野新幹線、しなの鉄道、上田電鉄「上田」駅から櫓門まで徒歩で1km
二ノ丸内の駐車場は無料でした

2009年8月16日日曜日

八幡原史跡公園 ( 第4次 川中島の戦い:長野 )

長野県長野市小島田町八幡原史跡公園内 
布陣図
戦国ファンなら誰でも夢を馳せる川中島古戦場へ行ってまいりました!!

八幡原史跡公園武田信玄の本陣跡地にあり、本陣を囲む土塁(これは陣城でいいのかな?)が崩れていますが形状がわかるような塁線が残っていて感激しました。
現地に立てば海津城妻女山善光寺などの距離感や陣容などのイメージが湧いてきますね、きてみてヨカッタと思ったしだいです♪

博物館は間に合わず!
私はお盆休み中の17:00頃に着いたのですが、駐車場の2ケ所の1つは17:00に閉まりますが、もう一方は19:00まで開いていたので入ることができました。
*冬場は時間が変わるかもしれないです
信繁が眠る典厩寺
機会があれば今回は時間が無く パスした妻女山大峰城屋代城あたりを廻ってみようと思ってます。


ここから南におよそ1kmの典厩寺には第4次川中島合戦で討死した武田信玄の実弟の典厩信繁のお墓があります。


川中島古戦場 地図

典厩寺 地図

2009年8月15日土曜日

鍋蓋城 (なべぶたじょう:長野)

長野県小諸市本町1
何も痕跡がありません
左前方あたりです。

長亨元年(1487)大井光忠が鍋の蓋の形をした鍋蓋城を築き、その子の大井光安の代には乙女城を築城しました。
武田氏の攻勢で落城、大井氏は滅亡しました。
小諸城は武田信玄の指示で山本勘助が築城したと伝えられていて、鍋蓋城(鍋蓋郭)と乙女城(二ノ丸)の2城を小諸城内に取り込んで築かれました。

場所は現存する小諸城大手門前公園から北へ40mほど、道路が本町交差点から鍋蓋城を貫き、周囲は石垣で囲まれていましたが後世に土取りをされ 現在では原型をとどめていない模様です。

鍋蓋城 地図

しなの鉄道「小諸」駅から西方250m程

2009年8月13日木曜日

荒砥城 (あらとじょう:長野)

長野県千曲市上山田3510
上ってきてココから入場料が必要
復興城門


大永2年(1522)に村上氏の一族山田氏が築城。 天文21年(1553)武田信玄の戦いで対岸にあり村上義清葛尾城は落ち山田城は主を失い、その後村上義清上杉謙信に助力を求め武田氏上杉氏の取り合いの場になっていきました。

天正12年(1584)この頃は上杉領であったが海津城副将屋代秀正徳川家康と通じ海津城をでて荒砥城に篭ったが上杉軍に攻められ落城、廃城になりました。

上田方面
上山田温泉街の裏山(城山、標高895m)が荒砥城で、上田方面から善光寺平南端まで見通しがきき要所であることがわかります。
平成7年に千曲市が城山史跡公園として整備し、主殿、兵舎、物見櫓、門などが再現されていて中世の城を理解するにはうってつけの史跡だとおもいます。


大河ドラマ風林火山海の口城の城攻めシーンのロケ地として使われていましたね。
入場料:大人¥300 小学生は無料
入場: 9:00-入園は16:30まで。 休園日:12/28-1/3 



荒砥城 地図  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )">
●しなの鉄道「戸倉」駅下車。南西方向に直線距離で2.1km ですが山道なので倍以上はあります。
●「城山入り口」交差点から上ると、善光寺大本願別院を過ぎ右に折れるとすぐ駐車場がある。