2011年5月16日月曜日

新府城、発掘・復元ヶ所 (しんぷじょう:山梨)

山梨県韮崎市中田町中篠
長篠織田徳川連合軍に破れた武田勝頼躅ヶ崎館が戦闘には不向きとみたのか?
釜無川沿いの七里岩断崖上に新府城を築きはじめたが、築城半ばで織田軍甲斐に向け侵攻、新府城を棄て退去自落しました。
直後に起こった本能寺の変後に武田遺領の取合いとなった天正壬午の乱では若神子城(須玉町)に拠る北条氏直に対するる徳川家康新府城本陣を置きました。その後、廃城とされたようです。


 能見城から駐車場に着くと雨が降りはじめます⬇


発掘中の東出隅からまわり、西出隅井戸跡、跡らしき土台、そして、搦め手にたどり着く頃には本降りになり、慌てて馬出枡形の写真を撮り、クルマに逃げかえる始末。
結局、主郭などは以前に訪れたこともあり、発掘調査中復元作業がなされている北麓部だけで退散とあいなりました。

個人的に:南北に延びる尾根の西と東の崖線の2面以外はあまり要害でないので、他の2方面もさらに土塁などで防御した(或いは構築予定)のではないかと想像してます。

ですから能見城のところの尾根を断つための長塁新府城防御ライン構想にあったのではなかろうか?と感じています。

韮崎市HP、史跡新府城址
新府城 地図JR中央本線「新府」駅下車 西南西に600m 8分
駐車場:あり(県道14号 七里岩ライン沿い)
トイレ :未確認

近くには、北に若神子城。 北北西にに能見城穴山氏館。 東南に信玄堤(信玄が構築した堤防)。 東南東に躑躅ヶ崎館、要害山城甲府城

2011年5月12日木曜日

能見城 (のうけんじょう:山梨)

山梨県韮崎市穴山町
 G・Wに山梨へ遊びがてら城廻りしきました。
ここは甲斐源氏一族 穴山氏の本拠地ですから駅名も穴山駅です。
駅員さんに城址登山口を聞いたら、毎度の如く「わたしは分からない」 の返事が!  穴山駅正面に「能見城」の看板が見えてるのになんで~??
仕方なく看板がある県道17号(七里岩ライン)へでてみると右手(東)の方が登れそうな見えたので100m程のところに登城路をみつけました。 よかった!
釜無川沿いの断崖以外は それほど険しい場所はなく、土塁で防御力をあげていたものと思われます。
主郭へ向う途中、土塁らしき削平地が散見しますが本当に当時の遺構なのか不明です。
現在の主郭(最高所)には水道施設があり、その周辺には削平地が数段あります。奥まで踏み分けていけば土塁などがみつかりそうですが、木々が繁り写真にもなりそうもないのでサッとみて下りしました。

はじめは武田勝頼新府城築城の際に出城として築いたらしく、武田家滅亡直後に本能寺の変が起き、後北条vs徳川そこに上杉などが絡む天正壬午の乱が起きました。 上州から進入した北条方若神子城に対し駿河から入った徳川方新府城能見城あたりを修築して対峙したものとおもわれます。
北側に台地を横断するプチ長城のような防塁があります、武田織田に備え防衛ラインたの? 天正壬午の乱徳川方が北方の守りをかためたかは不明? 今回はスルーして紹介できませんが、こちらの方が見所だったようです。

能見城 地図
JR中央線「穴山」駅下車 駅正面の山
駐車場:穴山駅前に止められそうです、駅で確認してみてください。
トイレ :穴山駅、改札を出て右すぐ

近くには、北西へ2kmで穴山氏館跡。南東へ2.4kmで新府城。 北へ6km若神子城烽火台

2011年5月7日土曜日

浦賀城 (うらがじょう:神奈川)

神奈川県横須賀市東浦賀2

三浦半島城跡めぐり 最後は浦賀城

幕末黒船来航で有名な浦賀ですが、
戦国時代の浦賀は北条氏康公が三崎城出城として浦賀城を築いたといわれています。 その頃は江戸湾の浦賀水道を挟み指呼の間にある安房里見氏と睨みあい、双方共に上陸作戦で戦いが繰りひろげていました。


現地案内図に加筆!
東叶神社に着いた時点で日没間近だったので慌てて 参道から登城、 連続した石段がキツイ・・・ ヒィヒィいいながら叶神社本社東照宮が鎮座している頂上に着くと、土塁痕があり、主郭の一段下には腰曲輪とみられる平場ありで城跡らしい雰囲気が漂い、海を眺め海防のことナド しばし感慨にふけりました。
そのあと井戸跡、綺麗に手入れされている堀切を見学して本日の三浦半島城跡めぐり終了となりました。

案内していただいたみなさま、参加のみなさま有難う御座います&お疲れさまでした。

因みに、勝海舟咸臨丸渡米する前に山上で水垢離断食をしたそうです。

浦賀城 地図京浜急行浦賀」駅下車、南東へ1.4km 22分 (叶神社まで)
駐車場:神社の前に止められそう
トイレ :神社で借りられるか?

近くには、北東に観音崎砲台跡。 西南西に怒田城。 西に衣笠城芦名城。 西南西に和田館。 南西に三崎城新井城。 浦賀造船所幕府が建設した日本発のドライドック (イベント以外は公開なし。2003年まで創業)

2011年5月4日水曜日

怒田城 (ぬたじょう:神奈川)

神奈川県横須賀市吉井1-1
 三浦半島城跡めぐり城目、怒田城
三浦水軍の拠点のひとつであったようで、当時は城下まで海が入り込んで干潟や湿地を形成していました。

馬蹄形の尾根に曲輪が点在していたと思われますが、開発で削られ尾根先端は消滅してしまっています。
残った城址は大きくなく、曲輪土塁が認識できますが跡は埋まっていて案内板の
表示がなければ見落としてしまいそうです。

登城口が分かりにくく、怒田城址と吉井貝塚で2つセットの史跡となっているので、地元で道を聞くときは 城より「貝塚の場所は?」 のほうが通りが良いです。

怒田城 地図JR横須賀線久里浜」駅下車、北東へ600m。京浜急行京急久里浜」駅下車、北東へ800m
駐車場:なし
トイレ :なし

2011年5月3日火曜日

新井城 (あらいじょう:神奈川)

神奈川県三浦市三崎町小網代1082  (マリンパークのところ)
  
三浦半島城跡めぐり5城目。

新井城のほとんどは東大臨海実験所油壺マリンパーク(遺構は壊滅的)となってます。
 
まずは、駐車場横にある新井城碑で写真を撮り、北側の海にせり出した突端にある三浦同寸(義同)のお墓参りをして、すぐ下の海へ下りぐるりと案内していただき、潮の流れが複雑で近寄り難いナドと興味深い話を聞きつつ 攻め口を探しながらの眺め歩き。
そこから台地上に戻り 大手にあたる引き橋跡に、ココは台地が極度にくびれていて両側は竪堀となって落ち、引き橋を外せば城内に進入できなくなります。
臨海実験所内には(入所許可必要)土塁が連続的に残っており、奥の門跡は折れがあり、かつてはもしくはが建っていたのだろうと思われる幅広の広い土塁が門前に睨みを効かせています。

一部残存部のみですが、堅固な造りをみると、三浦氏滅亡後も北条氏は新井城三崎城浦賀城連携ラインで里見水軍にあたっていたのではないのか?(このとき新井城は廃城か?)
 と個人的には感じています。

さて次は、怒田城へ!

東京大学三崎臨海実験所H・P (ページトップには引き橋以外のほぼ全容の航空写真あり)
京急油壺マリンパークH・P新井城 地図京浜急行三崎口」駅下車、バス1番油壺行きに乗り「油壺」下車
駐車場:油壺マリンパーク (¥700/1日 2011/4)
トイレ :なし (マリンパークの売店にあるかも?)

近くには、三崎城。 北北東に和田館芦名城。 東北東に怒田城浦賀城

2011年5月1日日曜日

三崎城 (みさきじょう:神奈川)

神奈川県三浦市城山町6-9(図書館のところ)
 三浦半島城跡めぐり4城目。
 
後北条氏の水軍基地で、安房里見水軍と睨み合うカタチになっていました。

の正面を塞ぐように城ヶ島(当然、島にも砦があったでしょう)がデンと構えているので良港を形成。 小田原合戦では城主の北条氏規は韮山城に籠もっており、家臣が開城しました。

現地に着いてみると、はほとんど埋められてしまっていますが、土塁は思っていた以上にいい感じで残っています。 いままで地図と「戦国の堅城(学研)」鳥瞰図を見比べてイマイチ様子が判然としなかったのですが。 現地に立ち、且つ案内をしていただいたお陰で、馬出し一部や軍港を扇のように囲む曲輪構成など、全体像がかなり鮮明になってきました。
現地の案内板では主郭体育館になっていますが上述の「戦国の堅城」のとおり、図書館=主郭 と判断するのが自然なのでそのように記述しています。
体育館二郭三浦中学校馬出しと曲輪。市役所大手前の曲輪福祉会館が敵を誘い込んで殲滅するような戦闘的な小郭。主郭の東に伝笹郭。 さらにを隔て城外に存在する光念寺本瑞寺三浦小学校にそれぞれが方形に近い土塁で囲まれ別郭になっており、お話では戦闘設備とゆうより政庁(役所)ではないかと仰っておりました。
本瑞寺に、古くは源頼朝公の桜の御所が営まれへの眺望もよくききます。

昼食はもちろんの三崎港周辺の食堂へ、水揚げ量日本一のマグロ、美味しかった♪
お腹が温まったので新井城へ向かいます。

三崎城 地図 
京浜急行三崎口」駅下車、バス利用
駐車場:なし
トイレ :市役所や図書館など

近くには、北には桃の御所跡に向井氏陣屋。 北北西に新井城。 北に和田館芦名城。北東に怒田城浦賀城