2009年7月29日水曜日

志村城 (しむらじょう:東京)

2009年07月29日

東京都板橋区志村2丁目16 (首都高速5号池袋線 志村料金所のすぐ北、ココは徴収所で出口ではない)
熊野神社
城址碑
神社前から竪堀っぽい道
熊野神社の鳥居脇に城址碑と案内板が建っています。
康正2年(1456)に赤塚城(志村城から西方4km)に入った千葉自胤がの支城として一族の千葉隠岐守信胤を入れた。大永四(1524)年に北条氏綱に攻められ落城しました。その結果北条の勢力下になり小田原合戦後に廃城となった模様です。そのほか豊島氏志村氏が関わるようですが、歴代城主・誰が築城したのか?などは詳らかではありません。 主郭はマンションと小学校、二郭熊野神社、精密機器のコパル周辺も郭跡です。神社の奥に僅かな高低差がありますが、土塁の名残のようです。写真の小学校脇の道も堀跡を連想させる雰囲気があります。

志村城 地図 都営三田線志村3丁目駅 すぐ南側の高台。
駐車場:無し

2009年7月25日土曜日

渋谷城 ( しぶやじょう:東京 )

東京都渋谷区渋谷3-5 (金王丸八幡宮のところ)
金王丸神社正面
ズバリ渋谷区にある渋谷氏の城で、渋谷氏は桓武平氏の流れをくんでいます。
金王丸神社の由来は渋谷氏であり、源平の戦乱にでてくる土佐坊昌俊こと渋谷金王丸を祀る金王丸影堂があります。境内には石垣の石が展示されています。

北側が微高地で明治通り寄り西側低地は川が流れ深田か湿地あるいは沼だったかと思われます。
北側は国道246号線が通り破壊されているようで定かではありません。

平安末期から鎌倉時代にかけての早川城主(神奈川県綾瀬市)だった渋谷重国の子が金王丸だそうです、うろ覚えですが小田急線の高座渋谷駅名にもなっています。

明治通りから脇の鳥居。
中国地方の毛利氏の出自は相模国愛甲郡毛利庄(もりの庄)の住人だったように、相模国高座郡渋谷庄に住し渋谷姓を名乗り、その一族が現在の東京都渋谷区に移住しものと思われます。
鹿児島の薩摩川内市にも渋谷氏地頭として移住していて、連合艦隊司令官の東郷平八郎はこの末裔です。


JR渋谷駅前の明治通りを300mホド南下して、このヤマザキデイリーストアーのかどを左に曲がって、その先です。


渋谷城地図

2009年7月16日木曜日

奥沢城 (おくさわじょう:東京)

東京都世田谷区奥沢7-41(浄真寺)
3棟のお堂に3体づつ計9体の仏像を安置
城址碑
虎口? 後世の開削なのか?
正面に近いところの土塁

世田谷城主吉良氏の家臣大平出羽の城館で、その領地は世田谷区等々力から目黒区碑文谷辺りまでだったようです。
後北条氏の台頭で、吉良氏とその家臣達は勢力下に組み込まれ大平氏は北条氏の直臣になっていったようです。
その後、1590年に豊臣秀吉による小田原合戦が起こり北条氏没落後は奥城は廃城、大平氏は帰農して(他説あり?)名主となりました。

地形は微高地の舌状大地の先端で三方を深田に囲まれた要害で、現在 中核部は浄真寺(通称九品仏)が建っていて その周囲に土塁が廻っています。
城の西500m程のところに中丸跡の石柱があり、これは出丸の跡なのか?ただいま調査中です。

吉良頼康に側室として嫁いだ大平出羽守(清九郎)の娘常盤姫の悲話「 常盤木記 (鷺草伝説) 」 があります。因みに世田谷の区の花は鷺草となっています。

奥沢城 地図
田園調布の隣駅九品仏駅から北へ50m程で参道に至ります。

2009年7月9日木曜日

松阪城 (まつさかじょう:三重)

三重県松坂市殿町
表門の辺り
二の丸の石垣
織田信雄が田丸城から松ヶ島城に入り、その後 蒲生氏郷が領主となり 当初氏郷松ヶ島城に入りましたが、直線で南南西3.5kmほど離れた四五百森(よいほの森)に新城を築きこの地を松阪と命名しました。

主郭部は石垣などよく整備されていて、跡形も無い大手門などの要所に城図がり、しかも赤丸で指示されていて写真を撮るときに助かります。
道路を隔てた松阪神社本居宣長の宮がある山も郭として機能していたと思いますがコチラの資料がないので土塁が等どの程度なのか不明?。 プール側にも塁線の名残のように見えるところもありましたコチラも不明です?
最近は関東や新潟の土の城ばかり廻っていたので久々の石垣にもぇました、時間の都合で開館時間に間に合わなかった歴史民族資料館鈴屋 本居宣長記念館に後ろ髪をひかれながら帰って参りました。

来迎寺移築門
御城番屋敷の一角、三重県指定文化財の土蔵
遺構
 来迎寺の裏門(立派な山門ではなく裏門)は城からの移築です
 御城番屋敷、江戸期に紀州領となり、その城番の長屋が残っていて、今でも住民の方が住まわれているようです。
 御城番屋敷の隅(最も城寄り)に城内にあった米蔵が移築されています。
 本居宣長旧居鈴屋、隠居丸に移築されています(このため鈴屋の開館時間以外は立入できません)。

因みに、地名はまつざかではなくまつさかだそうです。

松阪城 地図

2009年7月7日火曜日

織田信雄築城の 松ヶ島城 (まつがしまじょう:三重)

2009年07月07松坂市松ヶ島662 付近
天守台

天守台への進入路
伊勢の国主 北畠氏が織田信長侵攻に備え細首城を築き。その後 織田信雄が入城し松ヶ島城と改名。次の城主は蒲生氏郷ですが、四五百の森に新城松阪城を築き、松ヶ島は廃城となりました。

場所は非常に判り辛いです。松ヶ島駅方面から行くと2枚目の画像でわかるように農家の間を田圃に向かうような道なので見落としやすいので注意してください。
現地は辺り一面農地と化し築山状の小山がポツリと残っています、この近くで金箔瓦が出土したのでこれが天守台ではないか?といわれてます。


市内、龍泉寺に松ヶ島の城門といわれる移築門が現存しますが、これは松阪城のものともいわれ素性はハッキリとしていません。
龍泉寺 移築門








カメラ PENTAX OptioS40

松ヶ島地図