2023年12月12日火曜日

府中城・石岡陣屋(ふちゅうじょう、いしおかじんや:茨城)

茨城県石岡市総社1-2-10 ふるさと歴史館のところ
石岡陣屋門(移築)

今回は石岡市大掾氏の府中城松平氏の石岡陣屋です。

この門は明治維新後に小学校校門として利用され平成になってから元の場所に近い現在地に移築されました。
陣屋門案内板

水戸家 徳川光圀の弟の松平頼隆府中藩立藩した。
案内板図拡大

石岡藩会所目付役所ナドは堀の外(府中城本丸の南側)にあったようです。
陣屋門脇から土塁

陣屋門の辺りから本丸角地の土塁が見えます。
ふるさと歴史館へ向う

この道を直進し次の角を小学校に向かう。
これが次の角

ココを右へ折れ直進、小学校敷地内に府中城中心部・常陸国国府跡・ふるさと歴史館がある。
門を入ると 府中城の土塁 案内板と土塁がある

後ろに土塁と奥にふるさと歴史館が見える。
府中城の土塁 案内板の縄張図

案内板劣化で判読不能読のため本文を載せます。
「府中城は、正平年間(1346-1370)大掾詮国により築造されたといわれる。天正十八年(1590)十二月大掾清幹が佐竹義宜に攻められ落城した。
 落城後は、義宜の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長七年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。その後元禄十三年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。
 城の規模は東西約五〇〇メートル、南北約四〇〇メートル 、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸、磯部出丸、宮出丸、を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。」
土塁と堀跡

陣屋門の奥に見えた土塁はこの先の部分。
右の建物の下は堀跡ののようです。
陣屋時代も堀・土塁は機能していたとようです。
石岡市立ふるさと歴史館

国府国分寺府中城陣屋関係の展示は少なく城址模型もありませんでした。
府中城パネル

恋瀬川山王川に挟まれた台地上に存在します。

MAPを頼りに現地に赴いてもピンときませんがこのパネルと照らし合わせてみるとおぼろげに全体像が見えてきます。
中世常陸府中の様子パネル

恋瀬川山王川の間に古代から中世史跡が広がっています。右端の方は霞ヶ浦になります。
領主たちの年貢関係文書パネル

六郷政乗、②皆川隆庸、③皆川成郷、④松平信綱
陣屋門案内パネル

藩士回顧録の写しの図面が載っている。
天狗党による刀傷と案内パネル

やはり天狗党は血気盛んで、お寺でも暴れたようです。


また、
二の丸の方にもが良好に残っているようです。
常陸国総社宮社宝には漆皮軍配(伝・太田道灌奉納)。漆皮軍配(伝・佐竹義宜奉納)があります。

JR常磐線「石岡」駅下車、西へ徒歩12分
駐車場:ふるさと歴史館
トイレ:ふるさと歴史館

近くには、南東に外城。東北東に常陸国分寺跡。北に国分尼寺跡。西に志筑城志筑陣屋。南西にに中根長者屋敷。東北東に竹原城がある。

2023年10月19日木曜日

かつての江戸氏の本城 河和田城(かわだじょう:茨城)

茨城県水戸市河和田999(報佛寺)
河和田城・報佛寺

河和田城の中核部ではありませんが報佛寺周辺の遺構を見てきました。
河和田城跡碑

山門前に石碑が建っています。
山門右手の堀

から右手には土塁がセットで残っています。
山門の左手

コチラは土塁のみでは埋められたようで駐車場になっています。
山門内から

土塁上に鐘楼
奥から門を振り返る

水戸大掾氏の支城として鍛治弾正(河和田入道)が築き、佐竹氏が水戸城を奪うと河和田城は廃城となり、江戸期江戸氏の支配地であった。
報佛寺駐車場の土塁

道路は堀跡を利用しているようにみえます。
上の写真と同じ箇所の土塁内側

正面の土塁を右に進むと山門があり、山門脇の駐車場とは別です。
北へ廻り込む

このお寺を一周してないが全体的に土塁が残存しているようです。
報佛寺の北から中核部

正面の林の辺りが主郭のようです。そこの水戸市教育センターの辺りに土塁がのこっています。

北側の天徳寺は写真右方奥。
報佛寺の北西角

前方の窪地はかつては大きめの堀・湿地で道路周辺は盛土のようです、開発であまり実感が湧きません。
北に流れる桜川水戸千波湖に流れ落ちています。

.参考 水戸市埋蔵文化財調査報告書71集 河和田城

今回は城跡碑がある報佛寺に向かいましたが中心部は水戸教育センターの辺り(土塁あり)と思わる。北側の天徳寺の辺りに二重土塁が残るようなので機会をみつけてそちらに行ってみようと思っています。


JR 常磐線 「赤塚」駅下車、南へ20分。
駐車場:参拝者用あり
トイレ:未確認

近くには、東北東に水戸城武熊城。東に吉田城

2023年9月27日水曜日

水戸城の南 武熊城(たけくまじょう:茨城)

茨城県水戸市柳町2-5
武熊城

水戸城のすぐ南の桜川畔に存在した武熊城に来ました。
武熊城吉田城と共に水戸城の支城と云われています。
角地にある碑

場所は武隈市民センターを目指すと、そこに城址碑があります。この辺りが城の中心であろうと思ったがココは城の西端になるようです。
武熊城跡碑

碑文 
「かつてこの地には東西約550m 南北440mにわたり武熊城が存在した 吉田の豪族 石川望幹が築城したと伝えられ その後 江戸氏の支配を経て天正18年(1590)佐竹氏が水戸城を攻略し城主となるに及んで、一族の東義久の居城となった。佐竹氏移封後 武熊城 慶安4年(1652)柳堤築造の時採土されて城跡はなくなった」

採土されたとはいえ 下に載せた図では武熊城中心部は媺高地の痕跡がみえます。
水戸城、武熊城、吉田城、大鋸町遺跡

当時の千波湖はもっと大きく武熊城の辺りには湖沼、湿地が広がっていたと想像します。

徳川の時代に開発され侍屋敷になっていたようです。

JR常磐線「水戸」駅下車、東南東に徒歩19分。
駐車場:なし
トイレ:なし

近くには、北西に水戸城。南に吉田城大鋸町遺跡。北東に武田氏館。西に河和田城

2023年9月25日月曜日

水戸市の 吉田城(よしだじょう:茨城)

茨城県水戸市元吉田2723(常照寺)
吉田城

手前の常照寺から奥の蓮乗寺辺りまでが吉田城です。
大掾氏(吉田氏)江戸氏→佐竹氏配下の氏→徳川水戸家徳川光圀によって主郭常照寺建立される。
常照寺

山門後方の両側の左右は郭跡のようです、奥の石段は利用にみえます。
左方は参拝者用🅿️駐車場
城址碑

門前が建っています。
案内板は無く碑の側面に刻まれている。
山門内側の階段脇
 
山門から階段を上り脇を見ると土塁っぽい?箇所が幾つか見受けられます。
階段を上りきると両脇に堀が!

垣根で見えないですが垣根の両側にが存在するのでココは土橋で写真の門の辺りに城門が存在したと思われます。
この土橋を越えると内側主郭です。
上の写真の垣根裏の堀

樹木で判り辛いですがソコソコの深さがあります。
主郭(常照寺本堂)

主郭へ入ると中は平坦です。
常照寺がそのまま土地利用したのか? 造成したのか? は分かりませんが、主郭周りを見ると全体的には平坦であった気がします。
常照寺本堂裏の堀(着色)

常照寺から蓮乗寺に向かって行くと、コチラの本堂裏にもがあります。
かつては門前の堀から繋がっていたようです。
主郭裏の堀を越えたところ

ココから蓮乗寺墓地まで平坦で、1段下に蓮乗寺本堂がある。
蓮乗院駐車場から

かつては鉄道の駅があり、右手の谷筋に古道が通っていたそうです。
吉田城想像図

※ H19年の発掘で、
吉田城の西隣の台地(元吉田町)に二重に連なる中世の堀が見つかっており東西210m 南北360mの城館が発見されています。吉田城と同規模で出土物も同時代のもの(大鋸町遺跡:おがまちいせき)。
常照寺・蓮乗院の下に古道が通っておりり、大鋸町遺跡と吉田城の両所から古道を睨む形態であるとの見解が出されているようです。
今後の発表が待たれます。
カシミール3Dに加筆
水戸城、武熊城、吉田城、大鋸町遺跡


JR 常磐線、水郡線、「水戸」駅下車、南東へ徒歩30分
駐車場:参拝者用あり(常照寺、蓮乗院ともに)
トイレ:不明

近くには、西に車丹波遺恨の地。北に武熊城。西北西に水戸城。北東に武田氏館。西北西に見川城河和田城。南西に平戸館がある。

2023年9月5日火曜日

土浦市の 高井城(たかいじょう:茨城)

茨城県土浦市上高津3317
「上高津」交差点

国道6号線(土浦バイパス)と県道123号線が交わる「上高津交差点のところの八坂神社高井城跡です。
写真左方も城域ですが削られてしまいました。
高井城

1枚目の写真からバイパス下の通路を抜けたところ。
城跡表示板

城址石碑は無く写真左側の表示板のみ。
南北朝時代の築城で興国4年(1341)に高師師冬が攻めたと記録にあるのみで、その後の資料はないようです。
八坂神社 社殿裏

土塁状の高まりあり。
webをみると高さ1mに満たない土塁が残されていると書かれているがこの辺りか?!
土塁??の上に宝篋印塔

土塁の残欠らしき上には宝篋印塔が建つ。
高井城より筑波山

城の範囲はココから下高津小学校の辺りまでが城域と思われています。
主要部は開発で損なわれていて残存部の八坂神社に登っても残存度は低いです。


web MAPで駐車できそうなところを探ったが無理そうなので近くのイオンモール土浦にとめ 買物をしてから400mほど歩いて行きました。

JR常磐線「土浦」駅下車、西へ徒歩35分
駐車場:なし
トイレ:なし

近くには、北東に土浦城木田余城がある。

2023年8月28日月曜日

土浦市の 木田余城(きだまりじょう:茨城)

茨城県土浦市木田余1211-4
木田余城

JR常磐線が城址の中心部を貫いています。
 しかも車両センターの中に城址碑があるので見るコトが出来ません(案内板は道路際にある)。
このJRに申込んだら見られるのでしょうか??

案内板の正面

コチラも推定城域ですが一面の蓮田になっている。
案内版

小田氏の家臣信田伊勢守であるが主家不仲となり菅谷氏(土浦城)によって誅殺された。

小田城を奪われた小田氏治土浦城やこの木田余城ナドを一時拠点として活動しました。
案内板拡大

航空写真(1979年)を見ると車両基地は無く、城址碑のところは耕作地のようです。
第一浅間下踏切

城址案内板から200mほど北寄りの踏切を渡ったところ!
線路は盛土らしいので道路も同様にスロープにされたかと思います。
踏切手前の蓮田は堀跡か?

web検索すると堀跡と紹介されており、確かに案内板地図の道路と照らし合わせるとそこにが存在しても良さそうです。

近くに旧城主 信田氏の供養塔があるようですが今回は寄れませんでした。


JR 常磐線「土浦」駅下車、北北東に徒歩23分(案内板)

駐車場:なし 案内板撮影だけなら路駐できる。
トイレ:なし

近くには、北東に土浦城移築門。南西に土浦城がある。