2012年7月22日日曜日

御殿山下台場 (ごてんやましただいば:東京)

東京都品川区東品川1-8 周辺
 

 幕末期の黒船来航ナド異国の脅威により、江戸防衛のため品川沖から深川洲崎にかけて築かれた台場の一つ、一連の台場の中でも西端にあり、御殿山下の海岸線に近いところに築かれています。

この台場のは学校やマンションに変わって。周りはすっかり埋立てられ、まっ平らで跡地を思わせる段差も一部を除いてほとんどありません。
唯一 校門前に、掘出された石垣を台座に使った灯台形のモニュメントがあり、案内板も建てられています。

周囲の道路は五角形に残っているので一周すると台場の規模を感じとることができます。



JR 東海道山手京浜東北線「品川」駅下車 南南西へ1km 
京浜急行北品川」駅下車 南東へ500m
りんかい線、東京モノレール天王洲アイル」駅下車 西南西へ1km

御殿山下台場 地図 (案内板のところ)
駐車場:なし
トイレ :なし
近くには、北西に御殿山城。北東に第四台場(一部石垣あり)、第一台場第五台場(品川埠頭内、遺構無し。 海を渡り北東に第六台場と第七台場(いわゆる お台場)。

2012年7月16日月曜日

喜多見氏館、喜多見陣屋 (きたみしやかた、きたみじんや:東京)

東京都世田谷区喜多見4
 喜多見氏館喜多見陣屋の場所は慶元寺のあたり。

ほぼ平坦地遺構はなく、南に岩戸川、北方には野川(河川改修でまっすぐに!)。

北西隣の氷川神社も包括されていたのかもしれません?
江戸氏は他所から追われ喜多見(木田見郷)に定住、世田谷吉良氏の重臣であったようです。
徳川家康公が関東へ来ると江戸氏は、500石旗本->2万石喜多見藩->改易 、その経緯の中で江戸を本拠とする将軍家に憚って姓を江戸から喜多見改姓したと云われていますが、真偽のほどはわかりません。

慶元寺: 江戸氏は、現在の江戸城 紅葉山付近に東福寺を建立。 その後に寺を喜多見に移し慶元寺とし現在に到ります。
周囲は宅地となり陣屋の規模は計れないがには江戸氏墓地江戸太郎重長木像江戸太郎重長銅像があります。

喜多見氏館 MAP
小田急線「喜多見」駅下車 南南東へ18分。
東急田園都市線「二子玉川」駅 4km バス利用で「次太夫堀公園前」バス停下車
駐車場:コインPへ、参拝の場合は境内にとめられそうです。
トイレ :近隣の公園ナド

近くには、すぐ近くに喜多見稲荷塚古墳第六天塚古墳。東南に大蔵館。東南東に瀬田城。東北東には烏山城。 多摩川を渡り西南西に枡形山城。西に寺尾城

2012年7月14日土曜日

世田谷の 烏山城 (からすやまじょう:東京)

東京都世田谷区南烏山1-10-10(世田谷文学館)

山城比定地は2ヶ所。
一つは、世田谷文学館ウテナ本社 周辺。
いま一つは、烏山神社周辺。 かつて神社周辺一帯に吉良氏と縁が深い泉沢寺(川崎に移転)がありました。
このいずれか? といっても両者200mほどの距離でしかありません。

宅地化で遺構も無く場所もわかりませんが、


S54年教育委員会編纂の「世田谷の中世城塞」で、烏山城は村をそっくり囲む邑城(総構え)の可能性も想定しております。
その範囲は環状八号線までとゆう広範囲になるので、広すぎで守備しきれないのでは? とも思いますが、確かにGoogleEarthでみると文学館ウテナ本社を中心に楕円形に道路が走っており、確かに城郭を彷彿させます。


小田原北条氏傘下の高橋氏は、扇ヶ谷上杉氏(この時の本拠は川越城)の支城深大寺城攻略のため、三鷹市牟礼砦を構築し烏山城とで、深大寺城包囲の一翼を担っていたようで、ここには小沢城寺尾城江戸城ナドが絡んできます。

高橋民部省輔氏高は、小田原合戦で降伏し高野山蟄居する北条氏直公に従いましたが、氏直公没後に烏山の地に戻ってきたようです。

知らない地ではないですが、吉良氏、北条氏に関係があるとは露も知らず、今頃になって廻っているわけでしたー! 汗

烏山城 地図1 ウテナ周辺
烏山城 地図2 烏山神社
京王線「芦花公園」駅下車 駅前から南へ 徒歩4分
駐車場:近隣のコインPへ
トイレ :なし(公園や文学館など利用可能)

北に牟礼砦。南東に赤堤塁世田谷城。南南西に喜多見氏館、南南東には瀬田城