2010年2月23日火曜日

沢山城 ( たくさんじょう:東京 )

東京都町田市三輪町1891付近
 別名三輪城、これは奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)御神体は三輪山 と関係(荘園か?)があるようです。


城址は沢谷戸自然公園北側の山で、公園東端から登っていくと白坂横穴古墳群前の道が山中城の土塁で制限された入路を彷彿させる掘底道のようです、東の出郭へ登ってみると、土塁が残っています


 別名は三輪城、これは奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)御神体は三輪山 と関係(荘園か?)があるようです。
城址は沢谷戸自然公園北側の山で、公園東端から登っていくと白坂横穴古墳群前の道が山中城の土塁で制限された入路を彷彿させる掘底道のように見えます、さらに東の出郭へ登ってみると、土塁が残っています
ウ~ン!出郭はいい感じだぞ~ 主郭部はもっと・・・
期待が膨らみます。
主郭へは土塁などに沿って辿り着けそうですが、個人所有地のため立入り制限があり、ただ一ヶ所開放さた道を行くしかありません。
主郭にたどり着くまで飽きることなく土塁や堀跡を楽しみながら進むと最高地点の七面堂です、この周りは土塁虎口らしき場所がいい状態で残っています♪
南側の沢谷戸公園は堀(沼・湿地)と思うのが自然ですね。

築城者や築城年代ナド不明で、一般には後北条氏の築城とされており、特に豊臣秀吉との対決が避けられない時期に改築強化されたらしいとゆうことです。
 八王子城主 北条氏照の発給文書に「周辺の軍馬をことごとく三輪に集め・・・、城米を江ノ島へ送れ・・・」と記述されていているのが唯一の資料となります。
地主の方は江戸時代は名主で城主の子孫の方であるようです。
豊臣秀吉による小田原合戦の失態で後北条氏の戦略評価が低いですが、沢山城のような枝城網を整備し迅速に兵と物資を動かせるだけの能力があるからこそ関東をほぼ制圧できたものと思いますが如何でしょう?。
前々回紹介した小沢原合戦の当時に砦など存在していれば隠れ谷公園まで3.3km程しか離れていませんから兵站線も問題ありません。

都内にあって開発もされず これだけの遺構があるのはすばらしいことですね♪

* 地主の方のご好意で見学できるので汚したり荒らすことのないよう見学しましょう。(看板には団体での見学TV取材禁止とあります!)ですが、高飛車な感じは無く、地元の方に挨拶をすると気さくに応えてくれますよ♪

沢山城 地図
小田急線鶴川」駅下車 南東1.7km(直線距離1km) 19分
東急  こどもの国線こどもの国」駅下車 北へ2.8km 約42分
駐車場:なし トイレ:民地なのでナシ
白坂横穴古墳群:東の出郭下の横穴で2基が公開、白坂は城坂からきています。
香山園(かごやまえん):「鶴川」駅北口すぐの築地塀のところで、元名主屋敷。戦国期に北条配下となり周辺に元木山城を持っていたらしい?
小野路城小山田城

2010年2月22日月曜日

川崎の 寺尾城 ( てらおじょう:神奈川 )

神奈川県川崎市多摩区菅馬場(すげばんば)2-30・寺尾台2丁目

 この城は室町時代寺尾若狭守が築城。ここは横浜市鶴見区の寺尾城ではなく、川崎市の寺尾城で、城主の寺尾氏はのちに諏訪姓を名乗っているようなので、元々同族でしょうから同名でも問題ないかと、、
 そもそも寺尾氏在城当時に寺尾城という名称だったのかも疑問です??
同じ多摩丘陵上の北の小沢城と南の枡形山城の中間にあり、小沢城支城ともいわれており。
近年、寺尾台団地造成のため削られ、わずかに台地の先端部に土塁と数段の平場(郭)が残存し、崖下先端付近から登る堀底道と思われる道(後世の開削か?)がついていて、その道の脇には2段ほど小郭があります。
或は、東から北側にかけての生田上水場も出丸であったかもしれないと想像するだけで楽しいですね。

2011/12/18のブログに川崎の寺尾城part2 あり。
 寺尾城 MAP
小田急線
生田駅下車 北北西へ1.4km 、南武線 中野島駅下車 南西へ1.4km。 どちらも20分位
駐車場:不明
近くには、長沼城小沢城枡形山城小沢原古戦場 など

2010年2月13日土曜日

小沢原合戦 北条vs扇ヶ谷上杉( おざわはらかっせん:神奈川・東京 )

東京都稲城市平尾。 神奈川県川崎市麻生区古沢、金程、千代ヶ丘、上麻生


 
 小田急線新百合ヶ丘駅と東京よみうりカントリークラブの間が合戦場です。 * 多摩川原など諸説あり
扇ヶ谷上杉深大寺城北条小沢城ときたら、次はやっぱり小沢原合戦でしょう! 上杉さんは北条氏の圧迫で相模を失い(某略により相模、糟屋で家宰太田道灌を謀殺したのが悔やまれるがあとの祭り、そして高輪原氏綱に破れ同時に牒略により江戸城をも失い これでは権威も家臣も無くなってしまう!?  っと考えたかどうか・・・そこで上杉朝興さんは起死回生の一戦に望みました。享禄3年(1530)に川越城から大軍をもよおし北条方の地を蹂躙しめはじめました。(江戸城、世田谷城、小沢城 辺りを攻めたらしい?) もちろん北条さんも黙ってはおりません、二代目当主氏綱は嫡男氏康を初陣にだし、且つ大将の重責を負わせ出陣させ乾坤一擲の勝負にでました。氏康乳母の子 志水小太郎(清水?)や合戦地に明るい万福寺(麻生区)の住人、中島隼人佐らを引き連れ合戦にのぞむ。 *注! ここからは個人的な想像 隠れ谷戸までは、合戦場といわれる金程1丁目から南に1km離れています、数にものをいわせて襲い掛かる上杉軍に対して退却とみせかけて谷戸に引き込み、長く伸びてしまった上杉軍をの横合いを伏兵でついたのではないか?オマケに狭い谷戸のため兵が多ければ多いほど混乱に陥ってしまったと読んでいるのですが、さらに小沢城からの出撃があれば挟撃の恐怖から総崩れ  なんてコトも・・・上杉軍が小沢城を攻囲中に、その場から有利な合戦地に誘い出し、秘策を用い叩く!  って桶狭間長篠の戦いみたいでワクワクしますね~! <-妄想

 勝坂 地図:16才の氏康は坂を駆け上がり勝った!勝った!と叫んだそうです(麻生区千代ヶ丘5丁目)
 隠れ谷公園 地図:この辺に伏兵を待機させたらしい
膳部谷戸 地図:炊き出しを行ったところ
 細山資料館 地図:合戦資料はありませんが、100年程前の地形模型があります。

* 新編武蔵風土記稿巻之五十九に小沢原古戦場がみられる。
* 古沢陣川とゆう名の川がある。
* 万福寺には寺があったが廃寺になったらしい。新百合ヶ丘駅入り口交差点は以前万福寺交差点だったような記憶が・・・?
* 新百合ヶ丘駅入り口の辺りは矢崎(矢先)といわれている場所は矢が飛んできて地面に刺さったとゆう伝承があります。注:源義経の家来亀井六郎重清の的場伝説もあり2011/5/8。
* いまでも中島隼人佐の末裔の方が住んで居られる。

GoogleMapの画像の「百合丘」駅は「新百合丘」駅の間違いです!

2010年2月10日水曜日

小沢城 ( おざわじょう:東京 )

東京都稲城市矢の口、神奈川県川崎市麻生区菅仙谷



場所はよみうりランドがある台地の先端部で遊歩道がついています。
わたしは湧水のあたりから登城し、穴沢天神(ココも腰郭の跡らしい)を経由し更に登り主郭部とおぼしきところに着いてみると、そこは削平地が数段ありましたが、縄張り図も持たずに行ったのでどこがどこやら・・・
奥の最高所は小沢峰で別名天神山物見(櫓)台として使用されていたようです。
そこから先端の方に向うと竪堀らしき溝や数段の削平地(帯郭か?)が散見されます。
近いうちに下調べをして もう一度確認しに行かねばなりません。

小沢城 MAP

京王線 「京王よみうりランド」駅から東方 1.2km 18分

近くには・・・
よみうりランド内に岡山藩池田家屋敷門丘の湯内に秋月藩黒田家屋敷門
寺尾城:多摩区寺尾台(寺尾台団地の先端部、小沢城の支城か?)
長沼城京王線稲城」駅前、開発で丘ごと消滅

2010年2月9日火曜日

深大寺城 ( じんだいじじょう:東京)

東京都調布市深大寺元町2-19

扇ヶ谷上杉氏後北条氏から圧迫され相模の基盤を失い、更に江戸城をも諜略され、後北条氏と対峙するために深大寺城を改修し最前線だった時期がありますが、しかしその前線も次第に後退していきました。
現在の城址は中央高速道路のすぐ北にある都立神代水生植物園神代植物公園別園)となり、湿地(堀)のところが水生植物園の中心部となっています。
発掘調査をもとにした土塁復元や柱跡を石柱で表したりして見学しやすくなっており、土塁は破壊せず 土塁残欠に盛土をし地中に保存されています。特に二重土塁はすばらしいです!

すぐ北側が深大寺なので深大寺蕎麦をゼヒ!(お店は各自 吟味してください)
深大寺城 地図
京王線調布」駅、「布田」駅下車 バス利用、共に北へ2.0km
駐車場神代植物公園の駐車場から深大寺を散策しながら1kmほど歩くのもいいでしょう。