2014年5月16日金曜日

大浦(津軽)氏の居城 大浦城(おおうらじょう:青森)

青森県弘前市大字賀田、五代
 大浦城大浦氏の築城で、大浦家養子に入った大浦(津軽)為信堀越城に移るまで、この居城としていました。
さて、
移動は焦りましたー!
堀越城から飛ばし、大浦城を目の前にして岩木山の山の端に陽が沈んでゆきます。


 なんとか、暗くなる前に大手門跡に到着!
案内板県道3号線から中学方面に曲がる目立たないところにあるので見落としそう!?
ココから中学校方面(左方向)に進む。
グランド写真は接いでいるのでデフォルメされてますが角は直角です!
縄張図をみると本丸塁線のようなんですが、詳細は未確認です。
大浦城大手門弘前城亀甲門二の門(既に破却)。台所長勝寺庫裏藤崎城近くの真蓮寺山門大浦城裏門と伝わっています。
 西の丸にも土塁痕跡がありそうでしたが、陽も落ちて時間切れ!!

残るは翌日廻りの弘前城和徳城となります。





大浦城 MAP(大手門案内板のところ)
奥羽線「弘前」駅下車、弘南バス 百沢嶽線、「診療所前」下車 1分
駐車場:なし
トイレ :なし


近くには、東に弘前城和徳城
堀越城。
石川城。





2014年5月13日火曜日

堀越城(ほりこしじょう:青森)

青森県弘前市堀越、柏田
津軽(大浦)為信大浦城堀越城弘前城居城を移す過程で拠ったで、前述の石川城から北西に3km強です。

熊野宮鳥居の所までは難なく辿りつけるのですが、
その狭い参堂を入っていいのか?分からず、ウロウロと外堀と思われる川のところまで走ったりで探すのにヒジョーに苦労しました!
オマケに二の丸辺りは何やら造成中らしくダンプが神社方面から出てくるし、離れたところにも駐車スペースがみつからなくてナカナカ近寄れないのですよー!
仕方なく、前回ブログの石川城へ先に廻り、就業終了となるであろう17:00過ぎに再び戻ってみると、すっかり作業も終わっていて無事入城!
 初め、遠巻きに見て、宅地造成で遺構破壊か?
とも思いましたが、
ナント! 土塁復元作業中、二の丸では盛土をして郭の成型復元作業中のように見受けられます。
 下調べ時の地図によると、本丸熊野宮横には堀越城整理作業場が建てられているはずでした。
そこには御殿の建物の柱位置表示がされていて、もう完成待ちとゆ状態でした。
 この復元作業のお陰で、web下調べのときより規模とか全体像が掴み易く、ある意味ラッキーだったようです。
冊子「為信戦跡」より縄張図掲載、これに従い本丸、小丸、外郭などの表記にしました。

この後は、夕暮れの大浦城へ向かいました。






堀越城 MAP 熊野宮のところ
駐車場:あり(神社前、2014/04/25現在 復元工事中で昼間は難しいか?)
トイレ :なし

近くには、南東に石川城。北西に弘前城。北西に大浦城。北北東に黒石陣屋黒石城。北に田舎館城藤崎城

2014年5月11日日曜日

石川城 或は 大仏ケ鼻城(いしかわじょう:青森)

青森県弘前市大仏
 通り名は石川城、またの名を大仏ケ鼻城です。
しかし、現地の城趾碑には大渕ケ鼻城と 彫られています。 

どうも、公園脇にある大仏院とゆうお寺からではなく、おおぶち→だいぶち→だいぶつ と変化していった?

また、大渕に突き出ている岬=鼻 かいな??
 と個人的にはと想像しています <-あまりあてになりませんが!?
 さて、大仏公園に向かいます。
石碑のところの階段を登ると一番広い平場で、
階段をパスしてこの先を回ると同じ平場の反対側へ出ることもできます。
主要部だけが大仏公園になっていますが、跡と思われる道路を隔てたリンゴ畑やその裏山も城址の一部ではないか? と感じましたが、
翌日弘前城で「為信戦跡」とゆう冊子を入手したところ、石川城の縄張り図が載っており、わたしの思うところと大きくはずれていなかったようです。
冊子「為信戦跡」から縄張図を引用しました。
元は、曽我氏ので、南部氏に攻略され石川氏が入城石川十三盾(館)といいましたが、大浦(津軽)為信により、兵が手薄のところを急襲され石川高信は自害。
弘前城築城の際に石川城の建築は弘前城へと運ばれ廃城となりました。

現在は、花見など地元の憩いの場所になっているそうです。


石川城 MAP (第1駐車場)
弘南鉄道 大鰐線「石川」駅下車、南東へ7分
東北自動車道「大鰐弘前」IC下車 東へ1.2km、3分
駐車場:あり
トイレ :あり

近くには、北北西に堀越城、更に行くと藤崎城。北西に和徳城弘前城大浦城。北に田舎館城。北北東に黒石城黒石陣屋

2014年5月10日土曜日

安東氏発祥! 藤崎城(ふじさきじょう:青森)

青森県南津軽郡藤崎町藤崎梨ノ木
 藤崎城は安東氏(安藤とも)発祥の地です。
鎌倉時代は北条得宗家から蝦夷管領に任じられ、津軽から秋田にかけて一大勢力でしたが、
南部氏との抗争、蠣崎氏の台頭と紆余曲折を経て、この地を失いますが戦国大名化し天正14年頃には秋田氏を名乗り、小田原合戦の折りは小田原へ参陣し領地を安堵されました。 関ヶ原合戦後に佐竹氏と入れ替えるように常陸宍戸、陸奥三春と転封し秋田氏は明治維新まで存続。

城址土塁看板の場所は、国道7号線に「舟場」とゆう交差点があり、その西側で、発祥の地の看板も国道7号線沿いになります。
このとき八幡神社で清掃をされていた地元の方によると、神社ナドははずれにあるものでしょ!
とゆうことで、ココは安東氏城址のはずれで、中心は北西に500mほど行ったところだそうです。
この堀跡らしき辺りを地図でみると二条の連続した川になっています、これは二重土塁?二重堀?だったのか?? 妄想中です!
神社前には運河が引き込まれていたそうで、辺りには船着場があって賑わっていたそうです、物資が行きかっていたのでしょ!

神社の近くにある「舟場」交差点名)はその名残おもわれます。
地名からかつての館と思われる場所。

太閤検地のとき、巡視の前田利家は津軽為信の居城の堀越城に入り、為信は藤崎古城に移ったと記述があるそうなで 、或いは一国一城令あたりまで存続していたのかもしれません。
伝、大浦城移築門



次は弘前市内を南下、石川城(大仏ケ鼻城)です。






*2014/5/18日10:00~、所沢市で第3回滝の城まつりが開催されます。
藤崎城 MAP
JR五能線藤崎」駅下車 南へ11分

2014年5月9日金曜日

旧・黒石城(くろいしじょう:青森)

青森県黒石市
旧黒石城は、黒石陣屋(新黒石城)から西へ1.2kmほどのところです。
台地の先端部に構えられていたようですが(もう少し低いところとも、道路わきに黒石城の石碑が立っているだけで何もありません。
津軽為信は晩年この城を隠居城としていたようです。

次は、安東氏発祥の地といわれる藤崎城に向かいました。



旧・黒石城 MAP
弘南鉄道 弘南腺「境松」駅下車 南東へ2分
駐車場:なし
トイレ :なし
近くには、南西に田舎館城。東に黒石陣屋。西に藤崎城。北に浪岡城






2014年5月8日木曜日

黒石陣屋(くろいしじんや:青森)

青森県黒石市大字内町
 の辺りが御幸公園となり、ココは小学校だったこともありグランドのような空地となっています。隣には黒石稲荷もみえます。
 黒石城(ココは黒石陣屋で旧黒石城は西方)の石碑が建っており、先端部は狭いですが詰の城のような蝦夷館があり雰囲気を醸しています。
この蝦夷館ですが、アイヌのシャシ説があるようです。
幕末期の陣屋絵図
弘前城津軽本家から知行5000石を分与され、後1万石黒石藩立藩大名に列しました。
ただし、表高こそ1万石ですが、実際はもっと裕福でったようです。


黒石城へ向かおうとして道路が鍵の手に曲がるところがあり陣屋(城下町)であったのだと気づかされます。


次は、ここから西へすぐの黒石城へ!


黒石陣屋 MAP
駐車場:なし
トイレ :あり
近くには、西に黒石城。 西南西に田舎館城弘前城大浦城。南西に堀越城石川城

2014年5月7日水曜日

川原御所(かわはらごしょ:青森)

青森県青森市浪岡大字浪岡浅井
 浪岡城の北畠氏の一族館跡で、場所は浪岡城とは浪岡川を渡った西南になります。

1562年に川原御所の具信が、浪岡城の本宗家の具運を殺害。これにより一族の結束が乱れ家運は衰えていきます。
これを機に大浦(津軽)為信は浪岡城を攻略し領土を広げてきます。
北畠親房
|---|---|
顕家  顕信  顕能
| (川原御所)(伊勢国司)
=    |
|    =
|    |
具運 殺害←具信

顕村←大浦為信が浪岡城攻略


現地は、遺構は何も残っておらず、見落としそうなところに御所の標柱があるのみです。

次は、黒石陣屋へと向かいます。

川原御所 MAP
JR東北本線「浪岡」駅下車、東へ徒歩12分