静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内932
堀越御所案内板前から
堀越御所は北条氏邸の目と鼻の先 とゆうより、北条氏邸やお寺を接収して造られたそうで、
案内板
ココから振り返ると、北条政子産湯の井戸が見えるとゆう位置関係。 なので、北条邸(時政邸)の一部を取り込んだとゆうのも納得です。
案内板の図から
発掘成果で池跡や堀が発見されています!
市の土地買上も進み史跡公園化が進んでいます。
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆討入りで灰燼に帰したと思われます。背後の守山は詰の城 守山城で茶々丸が籠り自刃したとも云われてます。
亀石
この辺りも部分的に池になっていたようです。
テニスプレイヤーの腰掛石のように置かれているのでこの石が 遺構かどうか?一瞬 悩みました。
この石も遺構!?
雅な庭園があったのでしょうか??
*将軍 足利義政と対立した鎌倉公方 足利成氏に代わり足利政知を鎌倉公方に送り込んだが、鎌倉入りを阻止され伊豆堀越に留まり堀越御所を営んだ(成氏は鎌倉から下総に逃れ古河公方となる)。 手をこまねいているうちに世情が混乱してきたので幕府からの援軍も望めず伊豆から関東へ進出できませんでした。
そして、堀越公方初代 足利政知の長子 茶々丸は素行が悪く、清晃(後の将軍義澄)は都で出家の身、そのため清晃の実弟潤童子が跡目となります。
政知が亡くなると茶々丸は異母弟の潤童子とその生母 円満院を生害し堀越公方2代目の座は茶々丸が奪い取ります。
しかし伊勢宗瑞(早雲)により堀越御所を急襲され茶々丸は抵抗敵わず自刃します。(異説あり:1、伊豆国内に落ちていった。2、甲斐の武田を頼った! ナド)。
伊豆討入りは伊勢宗瑞(早雲)による いわゆる下剋上なんですが、
将軍足利義澄(清晃)の生母円満院と兄弟の潤童子を殺されたので将軍義澄の意向であったとも、扇ガ谷上杉定正の後押しがあったとも云われています。
*このとき茶々丸は成人で元服名は不明。
堀越御所 地図
伊豆箱根鉄道 駿豆線「韮山」駅下車。南東へ1.5kmほど
駐車場:あり(少し歩く)
トイレ :なし
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