茨城県鹿嶋市城山1-1
常陸の大椽氏の子孫で、鹿島神宮と関係の深い鹿島氏の居城です。前回のブログ塚原卜伝もその家臣です!
大手門は国道51号(舟津の堀)の「鹿島小学校 」信号のあたりですが、今回は、北端から城址へ入ったので写真の順は大手が後半になります。
線路脇の辺りに2段ほど郭跡のようで、登ると帯郭、そこから一段登ると三角形の郭があり、もう一段登ると犬走りor帯郭?
(外周を一周していたのだろうか?)に出て、更に登ると本丸と呼ばれる空間です。
登ると平地が広がり、その内部を堀や土塁で直線的に3区画に区切りられていたようで、これは御殿を建てても余裕の規模であります。
ココで「本丸と呼ばれる」と書いた理由は、鹿島城山公園が本丸、鹿島高校が二の丸とされてますが、主郭内が仕切られ1,2,3郭 又は 1,2郭+玄関スペース と区画されているならば、高校のところは3~4郭とゆうことになるような??
主郭虎口前には想像以上の深く広い堀があります。
主郭の北から西には水堀、その外には霞ヶ浦が今より近くせまり舟入を持ち、東側の卜伝像の辺りも外堀内であったようです。北は国道51号(鹿島バイパス)から南は国道51号(旧道)に及ぶ立派な城であったことは間違いないですね!
鹿島城 地図
JR 鹿島線「鹿島神宮」駅下車、南西400m
駐車場:あり。 本丸内にとめられるようですが要確認。神宮参堂200m程手前に無料Pあり(日中のみ)
トイレ :あり
近くには、北北西に塚原城。南東に館山城、その先に粟生城。
城郭ページ! 関東の後北条系の城メインで、 範囲は古代山城から近世城郭まで! その他、遺跡、寺院、伝統芸能、ナドも・・・ *過去Blogは「県名」「石垣」「古墳」ナド ラベルのキーワードで検索してください。
2012年8月17日金曜日
2012年8月14日火曜日
剣豪 塚原卜伝 墓所 (つかはらぼくでんぼしょ:茨城)
茨城県鹿嶋市須賀
夏季休暇は鹿島、香取へいってきました。
剣道の道場に必ず掲げられている「鹿島・香取大明神」ですが、鹿島の太刀は上古から伝わり剣術の元祖ともゆうべきもので、当時この辺りが蝦夷対応の拠点であったのも由来の一つのようです。
早朝に鹿島に到着、まずは 塚原卜伝の墓所に向かいます。 墓所に近くなると要所に案内板が立てられているので迷わず到着できます。
現地に駐車場も用意されております。
塚原卜伝は 鹿島神宮 神官の卜部 吉川家出身で塚原家へ養子入り。 鹿島新当流を興し、将軍 足利義晴、義輝、義昭や伊勢国主 北畠具教、武田信玄に剣術を指南したことでも有名。
生涯200度以上の戦いで一度も負けなかったそうです。
お墓参りをして、そのお言葉「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」 を肝に命じて、次の目標 鹿島城、鹿島神宮を目指すのでありました。
塚原卜伝銅像 地図
塚原卜伝の墓所 地図
JR 鹿島線「鹿島神宮」駅下車、北西へ3.2km。
JR鹿島線、鹿島臨海鉄道「鹿島サッカースタジアム」駅下車、西へ3km
駐車場:あり
トイレ :なし
近くには、塚原城。南南東に鹿島城。南東に館山城、粟生城。
夏季休暇は鹿島、香取へいってきました。
剣道の道場に必ず掲げられている「鹿島・香取大明神」ですが、鹿島の太刀は上古から伝わり剣術の元祖ともゆうべきもので、当時この辺りが蝦夷対応の拠点であったのも由来の一つのようです。
早朝に鹿島に到着、まずは 塚原卜伝の墓所に向かいます。 墓所に近くなると要所に案内板が立てられているので迷わず到着できます。
現地に駐車場も用意されております。
塚原卜伝は 鹿島神宮 神官の卜部 吉川家出身で塚原家へ養子入り。 鹿島新当流を興し、将軍 足利義晴、義輝、義昭や伊勢国主 北畠具教、武田信玄に剣術を指南したことでも有名。
生涯200度以上の戦いで一度も負けなかったそうです。
お墓参りをして、そのお言葉「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」 を肝に命じて、次の目標 鹿島城、鹿島神宮を目指すのでありました。
塚原卜伝銅像 地図
塚原卜伝の墓所 地図
JR 鹿島線「鹿島神宮」駅下車、北西へ3.2km。
JR鹿島線、鹿島臨海鉄道「鹿島サッカースタジアム」駅下車、西へ3km
駐車場:あり
トイレ :なし
近くには、塚原城。南南東に鹿島城。南東に館山城、粟生城。
2012年8月13日月曜日
三田氏館 ( みたしやかた:東京 )
東京都国立市谷保6003周辺。都指定文化財・旧跡
国立市HPでから・・・
『 「城山」は、比高差8メートルほどの青柳段丘崖をうまく利用してつくられた中世の居館跡です。土塁と空堀により方形に曲輪がつくられた「方形館」の特徴をもつもので、およそ14世紀以降につくられたものと考えられます。 』
三田氏館は谷保の城山(やほのじょうやま)とも呼ばれ、現在は城山公園となっています。
ずいぶん経ちますが、友人が近くに住んでいるのでこの辺りをウロウロとしていましたが、登城は初めてになります。
台地上はかなりの密度で住宅が建っているのでこれだけ遺構が残っているのは嬉しい限りです。
上記HPを信じるなら、方形の外側も郭が構築されているようなので、後から拡張されたものでしょう?
主郭部付近に櫓台状の盛り上りもあるようですが、先を急いでいたのと、駐車場を見つけられなかったこと、主郭は個人宅なので、下の城山公園と堀底部あたりまでで撤収となりました
また寄ったら画像など追加いたします。
*注:「マムシ」と「蜂の巣」に注意の看板が立っています。自分が堀底を歩いていたら蜂が羽音を鳴らし私の真横を飛んでいきます、巣に近かったので偵察にきたのでしょう。
三田氏館 地図
駐車場:城址の南側に入ったがありませんでした。(柳沢家住宅のあたりにありそう?)
トイレ :不明 公園にありそうですが?
JR南武線「矢川」駅下車、東南へ1km。 同じく「谷保」駅下車、西南西へ1.1km
中央自動車道、国立府中ICから北西へ600m
近くには、北西に立河氏館。南東に分倍河原古戦場。
多摩川を渡河->西南西に関戸天主台。西南には高幡城と百草城。
国立市HPでから・・・
『 「城山」は、比高差8メートルほどの青柳段丘崖をうまく利用してつくられた中世の居館跡です。土塁と空堀により方形に曲輪がつくられた「方形館」の特徴をもつもので、およそ14世紀以降につくられたものと考えられます。 』
三田氏館は谷保の城山(やほのじょうやま)とも呼ばれ、現在は城山公園となっています。
ずいぶん経ちますが、友人が近くに住んでいるのでこの辺りをウロウロとしていましたが、登城は初めてになります。
台地上はかなりの密度で住宅が建っているのでこれだけ遺構が残っているのは嬉しい限りです。
上記HPを信じるなら、方形の外側も郭が構築されているようなので、後から拡張されたものでしょう?
主郭部付近に櫓台状の盛り上りもあるようですが、先を急いでいたのと、駐車場を見つけられなかったこと、主郭は個人宅なので、下の城山公園と堀底部あたりまでで撤収となりました

*注:「マムシ」と「蜂の巣」に注意の看板が立っています。自分が堀底を歩いていたら蜂が羽音を鳴らし私の真横を飛んでいきます、巣に近かったので偵察にきたのでしょう。
三田氏館 地図
駐車場:城址の南側に入ったがありませんでした。(柳沢家住宅のあたりにありそう?)
トイレ :不明 公園にありそうですが?
JR南武線「矢川」駅下車、東南へ1km。 同じく「谷保」駅下車、西南西へ1.1km
中央自動車道、国立府中ICから北西へ600m
近くには、北西に立河氏館。南東に分倍河原古戦場。
多摩川を渡河->西南西に関戸天主台。西南には高幡城と百草城。
2012年8月3日金曜日
将門公首塚・酒井家上屋敷 (まさかどこうくびづか・さかいけかみやしき東京)
東京都千代田区大手町1-2
今を遡ること千五十有余年前、平将門公が天慶の乱に散り、頸は都で晒された。
だが、その頸は東方に飛び、江戸湾近くに落下し祀られます。
この「将門首塚」こそが頸が落下した その地であります。

徳川家康公が江戸築城にあたり大手門近くののため、神田に祀り神田明神として現在に伝えています。
誰もいないかと思いましたが、男女を問わずスーツ姿でお参りしていかれる方がけっこういらっしゃいます。
また、この首塚付近は酒井家上屋敷の一部になっていたようです。
帰りに、大手門-修復がもう少しの石垣-坂下門ー桜田門-溜池と歩いてみたので写真もアップしときます。
と、
真面目に書いてきましたが
あまりの暑さと、週末の開放感から、大手町の 「一番搾りFrozen Garden」で一杯やってからの堀端廻りなのでありました~ 首塚-大手門-皇居前広場-桜田門と進み、警視庁の前を赤ら顔で歩いたのは内緒です!!
お粗末さま! *一番絞りFrozenは8/31迄。
今を遡ること千五十有余年前、平将門公が天慶の乱に散り、頸は都で晒された。
だが、その頸は東方に飛び、江戸湾近くに落下し祀られます。
この「将門首塚」こそが頸が落下した その地であります。

徳川家康公が江戸築城にあたり大手門近くののため、神田に祀り神田明神として現在に伝えています。
誰もいないかと思いましたが、男女を問わずスーツ姿でお参りしていかれる方がけっこういらっしゃいます。
また、この首塚付近は酒井家上屋敷の一部になっていたようです。
帰りに、大手門-修復がもう少しの石垣-坂下門ー桜田門-溜池と歩いてみたので写真もアップしときます。
と、
真面目に書いてきましたが
あまりの暑さと、週末の開放感から、大手町の 「一番搾りFrozen Garden」で一杯やってからの堀端廻りなのでありました~ 首塚-大手門-皇居前広場-桜田門と進み、警視庁の前を赤ら顔で歩いたのは内緒です!!
お粗末さま! *一番絞りFrozenは8/31迄。

2012年7月22日日曜日
御殿山下台場 (ごてんやましただいば:東京)
東京都品川区東品川1-8 周辺

幕末期の黒船来航ナド異国の脅威により、江戸防衛のため品川沖から深川洲崎にかけて築かれた台場の一つ、一連の台場の中でも西端にあり、御殿山下の海岸線に近いところに築かれています。
この台場のは学校やマンションに変わって。周りはすっかり埋立てられ、まっ平らで跡地を思わせる段差も一部を除いてほとんどありません。
唯一 校門前に、掘出された石垣を台座に使った灯台形のモニュメントがあり、案内板も建てられています。
周囲の道路は五角形に残っているので一周すると台場の規模を感じとることができます。
JR 東海道、山手、京浜東北線「品川」駅下車 南南西へ1km
京浜急行「北品川」駅下車 南東へ500m
りんかい線、東京モノレール「天王洲アイル」駅下車 西南西へ1km
御殿山下台場 地図 (案内板のところ)
駐車場:なし
トイレ :なし
近くには、北西に御殿山城。北東に第四台場(一部石垣あり)、第一台場と第五台場(品川埠頭内、遺構無し。 海を渡り北東に第六台場と第七台場(いわゆる お台場)。

幕末期の黒船来航ナド異国の脅威により、江戸防衛のため品川沖から深川洲崎にかけて築かれた台場の一つ、一連の台場の中でも西端にあり、御殿山下の海岸線に近いところに築かれています。
この台場のは学校やマンションに変わって。周りはすっかり埋立てられ、まっ平らで跡地を思わせる段差も一部を除いてほとんどありません。
唯一 校門前に、掘出された石垣を台座に使った灯台形のモニュメントがあり、案内板も建てられています。
周囲の道路は五角形に残っているので一周すると台場の規模を感じとることができます。
JR 東海道、山手、京浜東北線「品川」駅下車 南南西へ1km
京浜急行「北品川」駅下車 南東へ500m
りんかい線、東京モノレール「天王洲アイル」駅下車 西南西へ1km
御殿山下台場 地図 (案内板のところ)
駐車場:なし
トイレ :なし
近くには、北西に御殿山城。北東に第四台場(一部石垣あり)、第一台場と第五台場(品川埠頭内、遺構無し。 海を渡り北東に第六台場と第七台場(いわゆる お台場)。
2012年7月16日月曜日
喜多見氏館、喜多見陣屋 (きたみしやかた、きたみじんや:東京)
東京都世田谷区喜多見4
喜多見氏館と喜多見陣屋の場所は慶元寺のあたり。
ほぼ平坦地。遺構はなく、南に岩戸川、北方には野川(河川改修でまっすぐに!)。
北西隣の氷川神社も包括されていたのかもしれません?
江戸氏は他所から追われ喜多見(木田見郷)に定住、世田谷吉良氏の重臣であったようです。
徳川家康公が関東へ来ると江戸氏は、500石で旗本->2万石で喜多見藩->改易 、その経緯の中で江戸を本拠とする将軍家に憚って姓を江戸から喜多見へ改姓したと云われていますが、真偽のほどはわかりません。
慶元寺: 江戸氏は、現在の江戸城 紅葉山付近に東福寺を建立。 その後に寺を喜多見に移し慶元寺とし現在に到ります。
周囲は宅地となり館、陣屋の規模は計れないが寺には江戸氏墓地、江戸太郎重長木像、江戸太郎重長銅像があります。
喜多見氏館 MAP
小田急線「喜多見」駅下車 南南東へ18分。
東急田園都市線「二子玉川」駅 4km バス利用で「次太夫堀公園前」バス停下車
駐車場:コインPへ、参拝の場合は境内にとめられそうです。
トイレ :近隣の公園ナド
近くには、すぐ近くに喜多見稲荷塚古墳、第六天塚古墳。東南に大蔵館。東南東に瀬田城。東北東には烏山城。 多摩川を渡り西南西に枡形山城。西に寺尾城。
喜多見氏館と喜多見陣屋の場所は慶元寺のあたり。
ほぼ平坦地。遺構はなく、南に岩戸川、北方には野川(河川改修でまっすぐに!)。
北西隣の氷川神社も包括されていたのかもしれません?
江戸氏は他所から追われ喜多見(木田見郷)に定住、世田谷吉良氏の重臣であったようです。
徳川家康公が関東へ来ると江戸氏は、500石で旗本->2万石で喜多見藩->改易 、その経緯の中で江戸を本拠とする将軍家に憚って姓を江戸から喜多見へ改姓したと云われていますが、真偽のほどはわかりません。
慶元寺: 江戸氏は、現在の江戸城 紅葉山付近に東福寺を建立。 その後に寺を喜多見に移し慶元寺とし現在に到ります。
周囲は宅地となり館、陣屋の規模は計れないが寺には江戸氏墓地、江戸太郎重長木像、江戸太郎重長銅像があります。
喜多見氏館 MAP
小田急線「喜多見」駅下車 南南東へ18分。
東急田園都市線「二子玉川」駅 4km バス利用で「次太夫堀公園前」バス停下車
駐車場:コインPへ、参拝の場合は境内にとめられそうです。
トイレ :近隣の公園ナド
近くには、すぐ近くに喜多見稲荷塚古墳、第六天塚古墳。東南に大蔵館。東南東に瀬田城。東北東には烏山城。 多摩川を渡り西南西に枡形山城。西に寺尾城。
2012年7月14日土曜日
世田谷の 烏山城 (からすやまじょう:東京)
東京都世田谷区南烏山1-10-10(世田谷文学館)
烏山城の比定地は2ヶ所。
一つは、世田谷文学館、ウテナ本社 周辺。
いま一つは、烏山神社周辺。 かつて神社周辺一帯に吉良氏と縁が深い泉沢寺(川崎に移転)がありました。
このいずれか? といっても両者200mほどの距離でしかありません。
宅地化で遺構も無く場所もわかりませんが、
S54年教育委員会編纂の「世田谷の中世城塞」で、烏山城は村をそっくり囲む邑城(総構え)の可能性も想定しております。
その範囲は環状八号線までとゆう広範囲になるので、広すぎで守備しきれないのでは? とも思いますが、確かにGoogleEarthでみると文学館やウテナ本社を中心に楕円形に道路が走っており、確かに城郭を彷彿させます。

小田原北条氏傘下の高橋氏は、扇ヶ谷上杉氏(この時の本拠は川越城)の支城の深大寺城攻略のため、三鷹市の牟礼砦を構築し烏山城とで、深大寺城包囲の一翼を担っていたようで、ここには小沢城、寺尾城、江戸城ナドが絡んできます。
高橋民部省輔氏高は、小田原合戦で降伏し高野山に蟄居する北条氏直公に従いましたが、氏直公没後に烏山の地に戻ってきたようです。
知らない地ではないですが、吉良氏、北条氏に関係があるとは露も知らず、今頃になって廻っているわけでしたー! 汗
烏山城 地図1 ウテナ周辺
烏山城 地図2 烏山神社
京王線「芦花公園」駅下車 駅前から南へ 徒歩4分
駐車場:近隣のコインPへ
トイレ :なし(公園や文学館など利用可能)
北に牟礼砦。南東に赤堤塁と世田谷城。南南西に喜多見氏館、南南東には瀬田城。
烏山城の比定地は2ヶ所。
一つは、世田谷文学館、ウテナ本社 周辺。
いま一つは、烏山神社周辺。 かつて神社周辺一帯に吉良氏と縁が深い泉沢寺(川崎に移転)がありました。
このいずれか? といっても両者200mほどの距離でしかありません。
宅地化で遺構も無く場所もわかりませんが、
その範囲は環状八号線までとゆう広範囲になるので、広すぎで守備しきれないのでは? とも思いますが、確かにGoogleEarthでみると文学館やウテナ本社を中心に楕円形に道路が走っており、確かに城郭を彷彿させます。

小田原北条氏傘下の高橋氏は、扇ヶ谷上杉氏(この時の本拠は川越城)の支城の深大寺城攻略のため、三鷹市の牟礼砦を構築し烏山城とで、深大寺城包囲の一翼を担っていたようで、ここには小沢城、寺尾城、江戸城ナドが絡んできます。
高橋民部省輔氏高は、小田原合戦で降伏し高野山に蟄居する北条氏直公に従いましたが、氏直公没後に烏山の地に戻ってきたようです。
知らない地ではないですが、吉良氏、北条氏に関係があるとは露も知らず、今頃になって廻っているわけでしたー! 汗
烏山城 地図1 ウテナ周辺
烏山城 地図2 烏山神社
京王線「芦花公園」駅下車 駅前から南へ 徒歩4分
駐車場:近隣のコインPへ
トイレ :なし(公園や文学館など利用可能)
北に牟礼砦。南東に赤堤塁と世田谷城。南南西に喜多見氏館、南南東には瀬田城。
登録:
投稿 (Atom)