2011年8月15日月曜日

飛鳥の石造物 (あすかのせきぞうぶつ:奈良)

奈良県明日香村
大和郡山城と高取城のところで転用石に触れたので自分なりに分かる範囲で調べてみました。
■ 猿石5体(飛鳥に男、女、法師、権現4体+高取城1体。 高取町観覚寺の光永寺にある1体は除外)は
現在は吉備姫王墓に置かれている。 明日香村平野の畑で顔が半分露出(今昔物語にある石の鬼形か?)した状態にあったものが江戸時代元禄15年に欽明天皇陵近くで堀りだされたもの。
詳らかではありませんが高取城二の門前に鎮座している猿石はこのとき一緒に掘り出されとされています。
なので石垣転用石ではなく、国学が発達した元禄期から大切に扱われ二の門前に置かれた(守り神としたものか?)。
 いずれにしても石垣転用石ではなさそうである。 

■他の気になる石
 
酒船石: 矢穴を開けて割られているのに多くの部分が残っているのは何故?

鬼の俎鬼の雪隠: 俎と雪隠で石室を構成。
なぜか岡の上に底である俎だけが残る。矢穴が多数あいており割ろうをした形跡がある、何のために?
蓋である雪隠はひっくり返った状態で下方に転落して(させられて)いる。

もう一つの鬼の俎: 鬼の俎・鬼の雪隠の近くに同じような石室があったが、こちらは明治になってから割られ、個人宅の庭石にされてしまった! 現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外にこの割られた石が展示されています。
一説では、双墓で転落している鬼の雪隠はこちらの割られた俎とセットであったらしいのです。


これまで私は、これらの石は城の転用石にされてしまったのかと思っていましたが、必ずしもそうとは限らないようです。

それと鬼の俎や石舞台古墳は石室の上に覆い土があったはずなんですが、どんな経緯で剥がされてしまったのでしょう、
 はたして 飛鳥人があばいたのか?その後の人か?
 謎は尽きません。

猿石 MAP (吉備姫王墓)

2011年7月30日土曜日

三大山城の一つ 高取城 (たかとりじょう:奈良)

奈良県高取町 国指定史跡
高取城は標高538.9mにあり、城下の札の辻からでも比高446mあり、美濃岩村城・備中松山城と並び三大山城に数えられます。

南北朝時代南朝方越智邦澄高取貝吹山に築城したのがはじまり。
大和郡山城豊臣秀長重臣 本多利久が城主となり大和郡山城支城として機能しました。

 関ヶ原の戦い本多氏は東軍であったため西軍に攻められましたが留守居衆だけで天嶮の要害に頼り撃退したようです。本多氏に継嗣がないため替わって植村氏が入り明治維新まで続きしますが、幕末天誅組の乱ではまで攻め寄せましたが1/5の兵200で撃退しました。
 大和郡山城から奈良つながりで高取城、前回と同時期(数年前)の写真になります。
時間がないので大手から徒歩ではなく、クルマにて壺坂寺脇を通り壺阪口門跡か入りました。
侍屋敷石垣をみながら上っていくと埋もれかけていた石垣もだんだんと高くなっていきます。 特に中心部の石垣は圧巻です! よくもまぁ、こんな高所に石垣を組んだものだな~ 

 と、 関心し、写真を撮りつつ、大手を降りていくと、、
高取城に来る目的の一つであった猿石君がおどけた顔で待っていてくれました! ココに置かれている経緯はわかりませんが石垣に組込まれなくてよかったよな~ とシミジミ


その後まわった国見櫓跡からの眺望は格別でした、夜景も素晴らしいようですが下山時はかなり危ないでしょうね。  まぁ、機会があればトライしてみたいとおもっています。



個人的には、国見櫓から「大坂の一大事」を監視でき、
事あらば吉野から東へ安全に抜けることができる(壬申の乱で大海皇子が吉野から美濃へ逃れ挙兵を遂げたコース)要衝であるのではと感じています。

城下長屋門ナドが残っています。また秋に高取城祭りも行われます。
高取町観光協会 
高取城CG再現プロジェクト(奈良産業大学、鳥瞰CGがみられます)

高取城 MAP電車 :近鉄 吉野線「壺阪山」駅下車。 徒歩で城下経由で1時間30分か?。 或いは バス利用で「壺阪寺前」下車 徒歩50分。

駐車場:町中の駐車場へ入れ徒歩。 壺阪寺のPから徒歩(お参りしてから登城しては?)。 本丸近くの七ツ井戸下に数台駐車できるらしい要確認トイレ :
近くには、北に大和郡山城筒井城多聞山城。 北西には信貴山城

日本100名城スタンプは城下の夢創舘に設置 (月曜は休舘日のため、予めスタンプした紙を館前に配置)

2011年7月16日土曜日

大和郡山城 (やまとこおりやまじょう:奈良)

奈良県郡山市城内町2(郡山城址公園) 県指定史跡

城主は筒井氏であったが、大和大納言 豊臣秀長が 大和紀伊和泉など100万石で入城。 豊臣秀長->秀保のあと、五奉行増田長盛居城となる。
ところが関ヶ原の戦いの責めを負って改易
その後は何度も城主は変わり、最後の城主は1724年に柳沢吉里甲府城からの移封されました。

今回は、以前の写真で恐縮です。
クルマをとめ、復興と復興追手門の写真を撮りはじめると、
通りかかった地元の方が「お兄ちゃん写真を撮ってやろう!」 とゆうのでカメラを渡して撮ってもらうと、最後に「ここは柳沢15万石の城だからゆっくり見てって~!」 といってました

 ありがとー オジさん!

柳沢氏は明治維新まで140年近く大和郡山を治めていたので地元に根付いていうようです。

本丸には柳沢神社(祭神は柳沢吉保)が鎮座し、その奥の天守台には伝・羅城門礎石石仏などの転用石が組み込まれています。
支城高取城猿石があるように、酒船石の欠片なんかも何処かに埋もれているのでしょうかね~?
 郡山高城内学舎側の遊歩道をぐるりと歩き、主郭部の石垣をの深さナドみながら歩くのもいいですよ。  これらが整備されたらいい眺めになりそうです!  また、3月に大和郡山お城まつりが開催されます。







柳沢文庫(月、祝 休み):毘沙門郭にあり、柳沢家からひきつがれた資料や書物を展示。

永慶寺(城址南):郡山城主柳沢家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替えの際に移転、いまある山門は城門を移築したもの。
市民会館(旧奈良県立図書館)に郡山城の模型あり。
大和郡山市観光協会HP
大和郡山城 MAP
JR関西本線郡山」駅下車 西北西へ1.1km 17分 (追手門まで。駅-城址間が城下町です)
近鉄 橿原線近鉄郡山」駅下車 徒歩 北へ徒歩700m 9分 (追い手門まで)
駐車場:あり  追手門前に駐車できたはずです、念のため確認してください。
トイレ :あり

近くには、南に筒井城、さらに南に高取城。 西南西に信貴山城。 北東に多聞山城があり

2011年6月29日水曜日

河越氏館 (かわごえしやかた:埼玉)

埼玉県川越市上戸378 (川越氏館跡史跡公園のところ)国指定史跡
秩父氏を祖とする河越氏を構えたところです。 河越氏が衰微した後は、河越城(扇ヶ谷上杉氏)を攻略するため山内上杉氏古河公方3000騎が駐留できる上戸の陣をこの地に築きました。
現在残るゴルフ練習場沿いの土塁常楽寺北側の土塁は その上戸の陣として築かれたと思われています。
また、 山内上杉氏扇ヶ谷上杉氏が争っている間に台頭してきた後北条氏 川越城を攻略、河越氏館(上戸陣)を重臣の大道寺政繁(武蔵新編風土記)にしたようです。 尚、常楽寺には大道寺政繁宝篋院塔があります。

館の場所は、
河越氏館跡史跡公園常楽寺上戸小学校周辺・それと一部河川 になります。
松山城から到着したのが18:00過ぎ、土塁の写真を撮りながら歩きだし史跡公園に着くと・・・
開園時間は18:00まで! 仕方なくフェンス際から写真を撮り帰宅の途につきました。

この日は三ツ木城吉見百穴松山城(2度目)ー河越氏館の順でまわりましたが、台風で朝まで雨が残っており出足が遅れたので 青鳥城をスルーしてしまいました~
なんか、こんなパターンが多いような気が・・・・ 

川越氏館 地図東武 東上線霞ヶ関」駅下車 北東へ1km (常楽寺まで)
駐車場:川越氏館跡史跡公園前
トイレ :史跡公園、18:00まで

近くには、東に川越城。 南東に砂久保陣所難波田城。 北に松山城

2011年6月17日金曜日

勝手に解釈、松山風流合戦 (まつやまふうりゅうかっせん:埼玉)

前回の松山城のからみで・・
 北条氏綱vs扇ヶ谷上杉朝定の戦の中でで松山風流合戦があり、これは松山城へ退却する難波田弾正憲重(扇ヶ谷上杉)に、攻勢の山中主膳(北条)がで問答したものです。

山中主膳  「 あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
    など難波田の崩れ行くらん
 
 (なにか難波田の 浦崩れゆく、 とも) 
 勝手に解釈: 悪いはずはない、良かろうと思い戦ったのだろう? 何故、難波田(難波の浦)の兵(波)は引いていくのだ?

難波田弾正憲重
 「 (上杉朝定)おきて あだし心(移り気・浮気)を 我もたば
    末の松山 波もこえなん
 

 勝手に解釈: 我が主人を残し闘死したら、 最後の砦の松山城はあなた方の兵の波で呑まれてしまうじゃないですか~  いゃ、この弾正がそうはさせません!

 ~~~~~~~
さて、
山中主膳あしからじの元歌は・・・ 出展は今昔物語や能の演目など 何通りかありそれぞれにに内容が異なるようです。

貧困のためつれあいを離縁し難波の浦で葦を刈って生計をたてていた夫。 元妻は京で高貴な人の屋敷で乳母となり、裕福になり供を連れ難波の浦に前夫を探しにやってきました。
元夫に元妻の呼びかけ 「あしからじ よからんとてぞ 別れにし 何か難波の 浦は住み憂き
 「あしかあじ(葦刈らじ=悪しからじ) よかれと思いアナタと別れたのに 難波の浦の生活のどこが淋しいの?

夫の返歌  「君なくて あしかり(葦刈り=悪しかり)けると 思うにも いとど難波の 浦は住み憂き
 勝手に解釈: あなたが居なくなって、悪いことをしたと思うにつれ、難波の浦の生活は淋しさが増すのです。

さらに、
難波田弾正きみおきて元歌は清原元輔で・・・ (多賀城市の末の松山=多賀城の枕言葉か?)
君をおきて あだし心を わが待たば すゑの松山 波も越えなむ
 (あなたをさし置いて 私が浮気するようなことがあれば 末の松山は波が越えてしまうでしょう。
 末の松山は、波がとどかない丘上にあるので、(浮気は)ありえないの意)

 ~~~~~~~
蛇足ながら・・・
なぜ「すゑの松山なみ越さじ」なのか? と以前から気になっていたところ、
それは「 1000年前の貞観地震でも津波の被害をこうむってないのでは? 」 との説があるようです、 驚くことに 先の震災でも無事で、すゑの松山の脇を津波が流れていったそうです。
 まさに 例えどおり    驚!

 ~~~~~~~
元歌は、どちらも男女の仲を呼んだ歌ですが、好敵手とゆう言葉があるように逢った恋人に呼び掛けるように戦場でやりとりするとはっ!
 文字通り風流合戦!!
わたくしも、火急のときにあっても この余裕を持ちたいと常々思っております。

2011年6月11日土曜日

武州 松山城(まつやまじょう:埼玉)

埼玉県吉見町北吉見、南吉見
前回書いた三ツ木城から13km、吉見百穴の南が松山城で、住所は東松山市ではなく、隣接した吉見町です。

はじめ登城路が分からず、岩屋観音の間から這い上がろうとしたが、台風の影響で竪堀が沢と化し断念!
取り敢えず、吉見百穴に行き城址地図を貰い、空堀跡ではないかと思える道路を登ったところが写真1枚目のところです。
 しかし、歩きはじめると三ツ木城にもあった「スズメ蜂に注意」の立看板がチラチラと目につきます。 しかも、台風直後で蒸し暑くスズメ蜂日和なんです ビクビクしながら先へ歩いてきました。
 北条氏康武田信玄援軍を得て上杉謙信方であった松山城攻めをしたりしてます。

ものの本によれば、北条vs上杉(謙信)の取り合いのもと、双方が補修拡張して複雑(北条流と上杉流築城術とゆうのかな?)な構成になったとあります。
いまの自分には、市野川の往時の流路とどこまでが城なのか全容がわかり難い。
市野川は城址南で突然直線に河川改修されてますが、蛇行が続き 辺り一面は湿地帯ではないか? 三郭の東側(外側)の家臣屋敷と思われる範囲がどこまでか?  百穴方面にも砦があっていいのかな? と素人ながら感じています。


因みに、南東側にあった大堀切は消滅してしまったようです。

松山城のおおよその様子がわかったので、周辺も含め散策したらまたアップします。



*行かれる方は帽子・長袖着用をお勧めします。

松山城 MAP

 東武 東上線東松山」駅下車 東へ2.0km。 バスで百穴入口バス停下車(所要6分170円)
駐車場:無料、百穴の文化財センター前
トイレ :吉見百穴(300円、年中無休)

近くには、西南西に青鳥城。 西北西に杉山城越畑城。 北西に山田城(森林公園内)。西に菅谷館。 川越城。 東南に三ツ木城

2011年6月1日水曜日

桶川の城山公園 三ツ木城 (みつぎじょう:埼玉)

埼玉県桶川市大字川田谷2839-11(公園事務所)
 

 場所は圏央道桶川北本ICから17号(上尾道路)を1km南下すると城山公園に着きますから、ヒジョウにわかりやすいです。

駐車場に着くと周囲は似たような風景でどの城址か分からず??
取り敢えず、の名残と思われる公園内のの方向に歩いていくと・・・
なんか土塁っぽい部分が見えてきて、そのまま回りこんでいくと二重土塁とおぼしきところを発見!
城郭さながら土塁の内側は私有地のようで容易に人を寄せつけません。オマケにがひどく、見せられるような写真がナカナカ撮れませんでした~
三角(曲輪)形状に土塁が残っているそうです。

桶川市歴史民族資料館(駐車場から):入館無料 9:00~16:30  休館:月・祝・年末年始・特別整理期間・月末
三ツ木城 MAP

JR高崎線「桶川」駅下車 西南西へ3.7km 
駐車場:無料
トイレ :あり

近くには、南西に川越城、川越氏館。 北西に松山城。 北北東に忍城。 北東に菖蒲城。