2009年6月26日金曜日

兎々呂城 (とどろき?とどろじょう?:東京)

東京都世田谷区深沢5丁目38

別称:等々力城。 城主は後北条家の家臣南条右京亮重長で、国府台合戦で戦功があり、トドロキの地を与えられ城を築きました。比定地は諸説あるようで、近くの深沢城(玉川警察付近とされている)との関係もよくわかりません(或いは 兎々呂城=深沢城か?)。
  新編武蔵風土記に よれば、「 ・・・ 掻き上げ(土)の城で。北条氏没落後この地を切り崩し 平地とし、そのまま蟄居した、その孫は出丸跡に住まいした ・・・」 とあります。南条氏は小田原合戦後に帰農して、完全服従をあらわす必要があったの か?破城したとのことです。 その子孫は徳川家の旗本として仕えました。 これにより残存遺構はなく(一部、玉石の道路が出土したようですが・・・)今で は都立園芸高校の門脇にひっそりと兎々呂城の石柱が建っていて、この他に校内にもう1つ大きな石碑があります(学校に申し込みをして見学にいかなければ!)
城とは関係ないですが、、、等々力のいわれは等々力渓谷の滝の音が轟くからなどと云われてますが、なんだか怪しい気もしますよね!多摩川を挟んで世田谷・ 川崎市に同名の土地が散見されます(宇奈根、瀬田、野毛、等々力、など)これは多摩川の蛇行の名残で土地が分断されているからです。
 兎々呂城 地図

*訂正:コメントを頂きました、学校がある日は自由に見学できるそうです。

2009年6月16日火曜日

上三川城 (かみのかわじょう:栃木)

栃木県河内郡上三川町上三川5095
駐車場入口

銀銘水
現地案内板より
建長元年に1247年に 宇都宮氏の一族 横田越中守が築城
慶長二年(1597)に芳賀高武に攻められ落城するまで、384年間続いた城です・・・

しかし、この案内板、
「 ~~~に範囲に土手を巡らせた場所(郭)がいくつも並んだ~~~ 云々」
万人向けの案内とはいえ土手はないでしょう!?


本丸をめぐる土塁はよく残っていて、どの程度かわかりませんが堀も掘りかえして元に近い姿を取り戻しています。
もともとの原型は方形館から外郭を拡張していったようですが残念ながら宅地化していて何もありません、トップ写真でわかるように公園入り口の道路は湾曲していて堀跡のようにもみえます。

ところで、
大手側の虎口の石垣があったのだろうが、実際にこんな石垣はあったのか?
この点は発掘成果を調べてみたいと思ってます。


駐車場、トイレあり。そこに案内板もあります。

上三川城 MAP

2009年6月15日月曜日

蜂須賀家、江戸 中屋敷門 (東京)

東京都世田谷区下馬2
蜂須賀家屋敷門全容
蜂須賀家屋敷門番所


蜂須賀家屋敷門意匠
いつでも行けると思いつつ、瀬田城と同じように後回しになってました。
さて、着いてみると修復中のようで足場が組まれメッシュシートがかけられていた ↓
明治になってから西澄寺に移築で傷みもきているのでしょう?
門の鋲や鉄の金具などは取り外されていて、修復完了まで暫くかかりそうです。

両側に番所も付いていて立派な武家屋敷門なのに両側に墓地が迫っていて撮影しにくく、塀などがあって全容が見られないのが残念です。


*2012/6/15 ちょうど3年ぶりのアップ、2枚追加、とうぜん修復も終わっております。


近所には・・・
○南南西へ300m程行くと、世田谷観音がありそこに小田原藩代官所だった移築建物があり
さらに、
○南東へ300m程いった所に、奥州遠征のおり源頼朝が馬を繋いだとゆう駒繋神社もあります。
西澄寺(livedoor 地図情報)

2009年6月14日日曜日

茂木城 (もてぎじょう:栃木)

栃木県芳賀郡茂木町小井戸461-1
ツインリンク茂木」で行われたオートバイの大会を観戦しに行きました、ついでといっては何ですが 「茂木城」へも寄ってきました。

宇都宮宗綱の弟八田知家が建久3年(1192年)築城、茂木氏と称しました。

山上ながら、本丸の下まで車道がとおりアクセスが楽です。
  (*ただいま、道路工事中でPまで上がれません
写真の二の丸三の丸は森状態ですが、本丸千人溜りなどよく整備されていて、見学は楽です。

近くに、細川忠興の弟 興元が構えた茂木陣屋跡があり、真岡鉄道では休日にSLが1往復走っており、お子様連れで訪城しても楽しめるかとおもいます。

茂木城 MAP

2009年5月20日水曜日

瀬田城 (せたじょう:東京)

東京都世田谷区瀬田1丁目付近
__IGP4059Golf入口
城址碑
行善寺2IMGP2862
行善寺
このあたりは何度も、しかも城内であったと思われる場所に侵入したことがありますが瀬田城として訪れるのは今回が初めてです。
城主長崎氏は元々平家の流れをくむ鎌倉の御家人でしたが、この時代は後北条氏の家臣で長崎伊予守重光が多摩川を見下ろす丘上に天文年間に構築しました。
台地がくびれた部分があり、そこを堀として城内外を隔絶していたようです。

写真の行善寺長崎氏が小田原からこの地に移したそうで、その長崎氏小田原合戦後は帰農してこの地の名主となり、現在でも子孫の方が住まわれているようですが、もしかしたらゴルフ場の石碑はその方が建てられたのかもしれませんね!?

ゴルフ練習場のあたりで長崎館跡の石碑を探しましたが二輪車でうろうろしていたので見つからず!?
街路ではなく駐車場奥の玄関脇にあるようです、また写真を撮りにいったらアップします。
*ゴルフ練習場内の石碑写真アップしました。

(瀬田城 livedoor 地図情報)

PENTAX Opptio S40

ゴルフ場の碑まで「二子玉川」駅から1kmほど

2009年4月28日火曜日

長岡市郷土資料館 (あやしい天守:新潟)

新潟県長岡市

この資料館は長岡城内にあった櫓がモデルらしいが、
当の櫓を知らないのでよくわからんです!?
早速 中の受付けで料金を払います、
入ってみると わたくし好みの鎧、兜、刀、河合継之助で有名なガトリングガンの模造品に心を躍らせ、山本五十六関係の遺品、等を見ながら最上階へ・・・
ここからは長岡市を見下ろすことができます、新幹線のホームが目立つので今は亡き城の位置は大体掴めます。

その後、
「山本五十六記念公園」に寄り、時間外で閉館の「河合継之助記念館」、
栄涼寺で「河合継之助」の墓参りをしてその日は終了しました。

本丸の城址碑は長岡駅前にあり、二ノ丸碑は「厚生年金会館」の解体のため塀に囲まれて見られません。
城址の模型は「坂之上小学校」にある模様。

取り敢えずは怪しい天守が拝めたので満足して帰ってきました。

長岡市郷土資料館
怪しい小天守

蒼柴神社の牧野家












二の丸発掘中


郷土資料館 地図)

2009年4月13日月曜日

3日経ったらは見頃に、鶴ヶ城(つるがじょう:福島)

福島県会津若松市
サクラと天守
北出丸の外から

満開です!
天守下から本丸、奥は茶室「麟閣」

阿弥陀寺に移築された御三階櫓
4月2日若松市役所のHPの開花情報画像ではうっすらと雪。

9日に現地へ行ってみると梅が盛りで桜はツボミ。

13日の本日は快晴、満開で絶好の花見日和で、
本丸内の茶室「麟閣(写真下の塀の中。千家ゆかり)」で桜を楽しみながら抹茶とお菓子をいただいて参りました。

鶴ヶ城へ行くなら今週中が見頃ですよ!

追加:かって本丸にあった唯一の遺構は七日町駅近くにある阿弥陀寺御三階櫓」。
本丸に櫓台が残されていて、そこに新築で復興する運動をしているようです。