東京都中野区本町2-26-6
応永年間(1394-1427)に鈴木九郎とゆう土豪がこの辺りに住みつき、馬を育て財を成しました。 地元の人々にも慕われたのでしょう、よって 中野長者と呼ばれるようになったようです。
鈴木九郎は家族共々幸せに暮らしていましたが突然の不幸が襲い、愛娘の小笹が病気で亡くなってしまいます、九郎は失望し僧侶となり自宅をお寺に建て替えたのがこの成願寺です。
中野長者遺跡の碑
ココは一般に城館として認識されていますが、寺の縁起では、いわゆる有徳人の屋敷跡です。これは土豪として城砦を持っていた土豪が大儲けをしたのか? はたまた城砦の跡地に鈴木九郎さんが住み着いたのかはなんとも言えません。
蓮池藩 鍋島家墓所案内板
佐賀藩 鍋島家の3支藩は小城藩、蓮池藩、鹿島藩で、この内5万2千石の蓮池藩の墓所があります。
鍋島地蔵
圓通閣
江戸中期の書物にも記載があり、観音さまに願をかけた鈴木九郎繋がりで、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34箇所を併せて100観音にお参りしたことになる百観音堂。
中野長者屋敷 地図
東京メトロ「中野坂上」駅下車。1番出口から山手通りを南へ徒歩350m
京王バス 成願寺前に「成願寺」バス停もあります。
近くには、北北西に中野城山、あしを延ばして沼袋陣屋(江古田原の戦い)。
城郭ページ! 関東の後北条系の城メインで、 範囲は古代山城から近世城郭まで! その他、遺跡、寺院、伝統芸能、ナドも・・・ *過去Blogは「県名」「石垣」「古墳」ナド ラベルのキーワードで検索してください。
2014年7月26日土曜日
2014年7月20日日曜日
徒然草 と 長州藩 下屋敷 (ちょうしゅうはんしもやしき:東京)
サントリー美術館で 「 徒然草 ~美術で楽しむ古典文学~ 」を開催しています。
わたくしもBlogタイトルに 「 徒然 」 の名を冠しているいるので行くべし!
とゆうことで鑑賞して参りました!!
●徒然草
吉田兼好は後の名で本来は卜部兼好(うらべかねよし)です。吉田神社の神職で、後二条天皇近くに仕えますが、30才ほどでで出家し第一線から身をひいてしまったようです。
ただ、
足利尊氏、直義ナド武士とも交流があったようで完全な世捨て人になったわけではないようです。
太平記に「兼好と云いける能書の隠世者を呼び・・・」と、あるように高師直のラブレターの代筆者としても有名!!
兼好法師(嫡流でない)と同じく吉田(卜部)家出身の吉田兼見は、吉田神社の神職で公卿であり、織田信長とも親交がありますが、
この2名は朝廷と武家をとりもつ似たような立場にあったのか?どうでしょう??
さて、美術館の展示は・・・
絵巻、屏風、徒然草写本中心であります。
細川幽斎(藤考)写本の幽斎本や本阿弥光悦の物も展示されております。
基本的に文章展示が中心なので 達筆な字は判読不能なので、読めるとこだけ拾い読み(恥)して僅かながらでも徒然草の一端に触れて参りました。
いまは崩し文字ナド今更ながらに勉強しようかとおもっている次第です。
●長州(萩藩)藩邸
前々回Blogの今井城、海舟邸のところで触れましが、
藩邸跡から出てきた石組み溝の石材は擁壁石として使用され、敷地の樹木140本も移植されています。
藩邸絵図。
当時は藩邸の植生はヒノキが多いため檜御殿とも謂われ、藩主の滞在も多かったようです。
わたくしもBlogタイトルに 「 徒然 」 の名を冠しているいるので行くべし!
とゆうことで鑑賞して参りました!!
●徒然草
吉田兼好は後の名で本来は卜部兼好(うらべかねよし)です。吉田神社の神職で、後二条天皇近くに仕えますが、30才ほどでで出家し第一線から身をひいてしまったようです。
ただ、
足利尊氏、直義ナド武士とも交流があったようで完全な世捨て人になったわけではないようです。
太平記に「兼好と云いける能書の隠世者を呼び・・・」と、あるように高師直のラブレターの代筆者としても有名!!
兼好法師(嫡流でない)と同じく吉田(卜部)家出身の吉田兼見は、吉田神社の神職で公卿であり、織田信長とも親交がありますが、
この2名は朝廷と武家をとりもつ似たような立場にあったのか?どうでしょう??
さて、美術館の展示は・・・
絵巻、屏風、徒然草写本中心であります。
細川幽斎(藤考)写本の幽斎本や本阿弥光悦の物も展示されております。
基本的に文章展示が中心なので 達筆な字は判読不能なので、読めるとこだけ拾い読み(恥)して僅かながらでも徒然草の一端に触れて参りました。
いまは崩し文字ナド今更ながらに勉強しようかとおもっている次第です。
●長州(萩藩)藩邸
前々回Blogの今井城、海舟邸のところで触れましが、
東京ミッドタウンの前は防衛庁、アメリカ軍宿舎、軍の施設、その前は 長州藩(萩藩)の下屋敷でした。
その雰囲気を残すよう「東京ミッドタウン」プロジェクトとして港区立 檜町公園(日本庭園部分)を含むかたちで構成されています。
藩邸絵図。
当時は藩邸の植生はヒノキが多いため檜御殿とも謂われ、藩主の滞在も多かったようです。
開発で藩邸は掘り返されてしまいましたが、オフィスビルやマンションが立ち並ぶ無機質な空間であるよりは、かつての毛利藩邸であった痕跡が残っているのでよしとしましょう。
また、毛利氏との関係で、萩の代表的な樹木である「夏みかん」「椿」が萩市より贈られ檜町公園に植樹されています。
また、毛利氏との関係で、萩の代表的な樹木である「夏みかん」「椿」が萩市より贈られ檜町公園に植樹されています。
2014年7月11日金曜日
三大山城と謂われる 備中松山城 (びっちゅうまつやまじょう:岡山)
岡山県高梁市内山下1
最近は竹田城と並んで天空の城名所となっている備中松山城ですが、美濃岩村城 大和高取城と並ぶ日本3大山城てす!
街から武家屋敷の風情が残る街路を過ぎズンズンと登ると、それほど広くはない駐車場にでます、そこが鞴峠(ふいご)です。
渡櫓門となっていた大手が見えてきます。
門内には足軽番屋が建っていました。
ココから岩盤と石垣のの造形美がみられ現存天守と並び見所の一つとなっています。
大手を抜けると三の丸下をぐるりと塀沿いに進むと、いまはなき黒門がたちはだかります。
黒門を通ると道の両側に四の平櫓の小スペース、御膳棚、厩曲輪があり、次は二の丸 鉄門(二の櫓門)跡です。
鉄門跡から二の丸内に入ると進入すると天守が睨みをきかせてますね!
天守から城主目線で!
本丸を出て搦手、後曲輪、水の手曲輪の方に廻ります。
石垣下の犬走り状のところは二の丸から延びる帯曲輪。
天守の後方を守る二重櫓(現存)は櫓内を通り抜けできる構造となっています。
大松山へ行くには、水の手曲輪の水の手門跡を通過します。
写真左の物置小屋らしきものは、かつて建っていた番屋風なのでしょうか??
搦手門は埋門形式のようです。
搦手曲輪とゆうにはあまりに狭小な曲輪です!
写真は鞴峠(ふいご) 駐車場にある案内板。
築城は鎌倉時代まで遡り、はじめ大松山に、その後に現在の本丸がある小松山まで拡張されます。そして戦国に突入します。
備中で戦国大名化を目指す三村氏は、はじめ毛利氏と組みますが、三村氏と敵対する宇喜多直家と毛利輝元が結んだため勢力伸長中の織田信長と同盟します、しかし毛利勢力圏に近く、両川(吉川、小早川)に支えられる毛利軍団に単独で対抗する形になります。
支城群を各個撃破され、最後には松山城も落ち、毛利氏所有となります。
関ヶ原後に小堀父子(子の政一は遠州流庭園で有名)が代官として入城。その後は城主を替えてゆき維新までの城主は板倉勝静でした。
不屈の闘将 山中鹿之介終焉の地であり、現存天守と石垣群は北関東の諸将を翻弄した水谷蟠龍斎(ばんりゅうさい)の子孫が立ち上げ、その水谷氏改易に際して大石内蔵助が開城の受取人となって訪れました。
そして、わたくしが尊敬する山田方谷の出身地であり、その方谷の元で長岡藩の河合継之介もこの地に学び、最後の筆頭老中となった板倉勝静ナドナド!
わたくしにとってたいへん興味深い地であります。
高梁市郷土資料館(備中松山城の模型あり)
松連寺、薬師院 MAP
山中鹿之助墓所 地図 (落合橋西信号から西南西に徒歩5分ローソン近く)
過去Blog:
三大山城の一つ 高取城 2011/7/30
高梁観光ガイド(シャトルバス/タクシー)
備中松山城 MAP (山上駐車場のところ)
JR伯備線「備中高梁」駅下車、北北東へ徒歩1時間 鞴峠駐車場まで。
駐車場:あり(雲海シーズンは不明?)
トイレ:あり。 鞴峠P、御膳棚にあり。
現存天守もあり皆さんご存知ですから今更 案内するまでもないのですが、最近はお城活動ができてないので過去写真ですがあげておきます。
岡山自動車、賀陽I,Cを降り、国道484号線で峠を過ぎ駐車スペースて休憩すると、眼下には高梁の街、正面には松山城の天守と櫓がみえます。街から武家屋敷の風情が残る街路を過ぎズンズンと登ると、それほど広くはない駐車場にでます、そこが鞴峠(ふいご)です。
駐車場の反対側(写真左)には下太鼓丸もあります。
登り坂を行くと木々の先に中太鼓丸(上太鼓丸)の石垣が現れます。
中太鼓丸(上太鼓丸)、下太鼓丸には太鼓があり、連絡をとっていたと聞きます。
そこから少し登ると・・・渡櫓門となっていた大手が見えてきます。
門内には足軽番屋が建っていました。
ココから岩盤と石垣のの造形美がみられ現存天守と並び見所の一つとなっています。
大手を抜けると三の丸下をぐるりと塀沿いに進むと、いまはなき黒門がたちはだかります。
黒門を通ると道の両側に四の平櫓の小スペース、御膳棚、厩曲輪があり、次は二の丸 鉄門(二の櫓門)跡です。
鉄門跡から二の丸内に入ると進入すると天守が睨みをきかせてますね!
本丸を出て搦手、後曲輪、水の手曲輪の方に廻ります。
石垣下の犬走り状のところは二の丸から延びる帯曲輪。
大松山へ行くには、水の手曲輪の水の手門跡を通過します。
写真左の物置小屋らしきものは、かつて建っていた番屋風なのでしょうか??
搦手門は埋門形式のようです。
搦手曲輪とゆうにはあまりに狭小な曲輪です!
写真は鞴峠(ふいご) 駐車場にある案内板。
築城は鎌倉時代まで遡り、はじめ大松山に、その後に現在の本丸がある小松山まで拡張されます。そして戦国に突入します。
備中で戦国大名化を目指す三村氏は、はじめ毛利氏と組みますが、三村氏と敵対する宇喜多直家と毛利輝元が結んだため勢力伸長中の織田信長と同盟します、しかし毛利勢力圏に近く、両川(吉川、小早川)に支えられる毛利軍団に単独で対抗する形になります。
支城群を各個撃破され、最後には松山城も落ち、毛利氏所有となります。
関ヶ原後に小堀父子(子の政一は遠州流庭園で有名)が代官として入城。その後は城主を替えてゆき維新までの城主は板倉勝静でした。
不屈の闘将 山中鹿之介終焉の地であり、現存天守と石垣群は北関東の諸将を翻弄した水谷蟠龍斎(ばんりゅうさい)の子孫が立ち上げ、その水谷氏改易に際して大石内蔵助が開城の受取人となって訪れました。
そして、わたくしが尊敬する山田方谷の出身地であり、その方谷の元で長岡藩の河合継之介もこの地に学び、最後の筆頭老中となった板倉勝静ナドナド!
わたくしにとってたいへん興味深い地であります。
高梁市郷土資料館(備中松山城の模型あり)
松連寺、薬師院 MAP
山中鹿之助墓所 地図 (落合橋西信号から西南西に徒歩5分ローソン近く)
過去Blog:
三大山城の一つ 高取城 2011/7/30
高梁観光ガイド(シャトルバス/タクシー)
備中松山城 MAP (山上駐車場のところ)
JR伯備線「備中高梁」駅下車、北北東へ徒歩1時間 鞴峠駐車場まで。
駐車場:あり(雲海シーズンは不明?)
トイレ:あり。 鞴峠P、御膳棚にあり。
2014年6月30日月曜日
津奈木城 (つなぎじょう:熊本)
熊本県芦北郡津奈木町大字岩城
今回も過去分です!
熊本、八代から国道3号線を鹿児島方面へ南下、佐敷城を過ぎたところの日帰り温泉に寄りました。
そこで、たまたま見つけたのが石造りの眼鏡橋と津奈木城です。
現在、城址は舞鶴城公園となっており、独立峰といったら大袈裟ですが、その南北にはそれぞれ川が流れ、その川は城の西方で合流し、海に注ぎます。 現在は海まで少し距離がありますが、埋立てや堆積を考慮すれば城のすぐ西に入江があり、海路の連絡はとれたものとおもいます。
当日は温泉裏から眼鏡橋を右手に見つつ舞鶴城公園の展望台に登ってみました。
この時は下調べも無く登りってしまいましたがコチラは裏手らしく!? 急崖なので眺めもよく、薩摩街道を監視できるいいポジションにああります。
西郷どん、大久保さぁ 等々が通ったであろう薩摩街道に眼鏡橋が残っているなんて嬉しいかぎりですね!
後日、調べると大手はこの反対側で、そこには案内板も駐車場も完備、土塁も残っているとゆうことです。
過去撮影分画像のため、今は様子が変わっている可能性と眼鏡橋、温泉方面からでも案内板か立っているかもしれません。
機会があれば細かくみてきます。最新の情報を明確に案内できなくてすみません!!
*2019/12/3現在は「津奈木I.C」が出来ており南西へ2kmほど
過去Blogリンク
2010/1/3 佐敷城
今回も過去分です!
熊本、八代から国道3号線を鹿児島方面へ南下、佐敷城を過ぎたところの日帰り温泉に寄りました。
そこで、たまたま見つけたのが石造りの眼鏡橋と津奈木城です。
当日は温泉裏から眼鏡橋を右手に見つつ舞鶴城公園の展望台に登ってみました。
この時は下調べも無く登りってしまいましたがコチラは裏手らしく!? 急崖なので眺めもよく、薩摩街道を監視できるいいポジションにああります。
西郷どん、大久保さぁ 等々が通ったであろう薩摩街道に眼鏡橋が残っているなんて嬉しいかぎりですね!
後日、調べると大手はこの反対側で、そこには案内板も駐車場も完備、土塁も残っているとゆうことです。
過去撮影分画像のため、今は様子が変わっている可能性と眼鏡橋、温泉方面からでも案内板か立っているかもしれません。
機会があれば細かくみてきます。最新の情報を明確に案内できなくてすみません!!
*2019/12/3現在は「津奈木I.C」が出来ており南西へ2kmほど
過去Blogリンク
2010/1/3 佐敷城
近くには、北に佐敷城、佐敷武家屋敷。南に水俣城、同じく水俣に徳富蘇峰・蘆花の生家。遠いですが東には人吉城があります。
2014年6月19日木曜日
赤坂の 今井城 と 勝海舟邸跡(いまいじょう、かつかいしゅうてい:東京)
東京都港区
木曽義仲の家臣 今井兼平の居館跡と伝わるのが今井城てす。
写真中央の森部分で分かるように台地上に立地しており、地形は城趾っぽいが遺構は何もありません。
城址伝承のみのためか氷川神社付近に城の案内板も皆無です!?
そして、境内は今井城のみならず江戸期の浅野土佐守邸 でもあります。
この浅野土佐守邸は三次藩下屋敷でしたが、お家断絶!
享保15年(1730)に徳川吉宗の命で赤坂4丁目にあった氷川神社をこの地に遷座、現在に至ります。
そして、本氷川坂(元氷川)を下ると勝海舟邸が、、
ココは 海舟が語ったものを一冊に纏めあげた「氷川清話」を聞き取りしたその場所であります。
建物敷地内に案内板と標柱がたっていて、当時の屋敷の姿はを想像することは難しくなっています。
今井城 地図
勝海舟邸跡 地図
東京メトロ :
千代田線「乃木坂」駅下車、東に、「赤坂」駅下車、南南西に7分。
南北線「六本木1丁目」駅下車、北西に徒歩10分。
日比谷線「六本木」駅下車、北北東に600m
都営地下鉄: 大江戸線「六本木」駅下車、北北東に400m。
近くには、西に萩藩下屋敷(長州藩、東京ミッドタウン)。芸州浅野下屋敷(赤坂サカス)。西の乃木神社に隣接する乃木希輔邸。南には長府藩毛利家上屋敷(六本木ヒルズ毛利庭園)があります。
写真中央の森部分で分かるように台地上に立地しており、地形は城趾っぽいが遺構は何もありません。
城址伝承のみのためか氷川神社付近に城の案内板も皆無です!?
そして、境内は今井城のみならず江戸期の浅野土佐守邸 でもあります。
この浅野土佐守邸は三次藩下屋敷でしたが、お家断絶!
享保15年(1730)に徳川吉宗の命で赤坂4丁目にあった氷川神社をこの地に遷座、現在に至ります。
そして、本氷川坂(元氷川)を下ると勝海舟邸が、、
ココは 海舟が語ったものを一冊に纏めあげた「氷川清話」を聞き取りしたその場所であります。
建物敷地内に案内板と標柱がたっていて、当時の屋敷の姿はを想像することは難しくなっています。
今井城 地図
勝海舟邸跡 地図
千代田線「乃木坂」駅下車、東に、「赤坂」駅下車、南南西に7分。
南北線「六本木1丁目」駅下車、北西に徒歩10分。
日比谷線「六本木」駅下車、北北東に600m
都営地下鉄: 大江戸線「六本木」駅下車、北北東に400m。
近くには、西に萩藩下屋敷(長州藩、東京ミッドタウン)。芸州浅野下屋敷(赤坂サカス)。西の乃木神社に隣接する乃木希輔邸。南には長府藩毛利家上屋敷(六本木ヒルズ毛利庭園)があります。
2014年6月18日水曜日
丸山城 は道灌終焉の地なのか? (まるやまじょう:神奈川)
神奈川県伊勢原市下糟屋
前回の七沢城同様に扇ヶ谷上杉氏と関連のある城なので2009年過去画ではありますが紹介します。
場所は丸山城趾公園(現在は完成)と高部屋神社を含む周辺部一帯です。
城の台地の南北にそれぞれ川か流れています(現在は直線的に河川改修されている)。
一説では西側の東海大学病院まで城域に含まれる広い範囲とされています。
扇ヶ谷上杉家は相模愛甲郡から武蔵南部にかけて広大な領地を抱えているので、それに見合った規模の城館を持っていたと私もおもいます。
丸山城趾公園と高部屋部神社間にも堀がありましたが、国道246号線が直線に貫いているので旧状はよく掴めません。
個人的に!
大庭城や深大寺城のように2郭、3郭と外に大きく広がってゆく縄張りかと想像しています。
←戦国時代だけでなく、他の時代の遺跡が出ているので何とも?
〜〜〜〜〜
館を鎌倉の扇ヶ谷から糟谷館に移した扇ヶ谷上杉氏ですが、山内上杉顕定の謀略により扇ヶ谷上杉定正は家宰(執事)の太田道灌を呼出し湯屋で謀殺してしまいます。
その後、大黒柱を失った扇ヶ谷上杉氏の末路はご存知のとおりです。
発掘調査ては、一定の規模を持った障子堀が発見され、扇ヶ谷上杉氏の遺跡でよく発見される「渦巻きかわらけ」も出土しているので、糟谷館の可能性は高いと感じています。
一方の糟屋館の比定地である産業能率大学辺りの発掘では小規模の出土物しかないようなので、こちらの進捗も楽しみですね。
*注: 丸山城址公園はすでに完成しています。近いうちに寄ろうと思っているのでまた写真をアップします。
過去Blog
扇ヶ谷上杉家所縁の 七沢城 2014/5/30
深大寺城 2010/2/9
丸山城 地図
小田急線「伊勢原」駅下車、
駐車場:あり
トイレ :あり
近くには、糟屋館比定地。七沢城。愛甲城。荻野中山陣屋。
前回の七沢城同様に扇ヶ谷上杉氏と関連のある城なので2009年過去画ではありますが紹介します。
場所は丸山城趾公園(現在は完成)と高部屋神社を含む周辺部一帯です。
城の台地の南北にそれぞれ川か流れています(現在は直線的に河川改修されている)。
一説では西側の東海大学病院まで城域に含まれる広い範囲とされています。
扇ヶ谷上杉家は相模愛甲郡から武蔵南部にかけて広大な領地を抱えているので、それに見合った規模の城館を持っていたと私もおもいます。
丸山城趾公園と高部屋部神社間にも堀がありましたが、国道246号線が直線に貫いているので旧状はよく掴めません。
個人的に!
大庭城や深大寺城のように2郭、3郭と外に大きく広がってゆく縄張りかと想像しています。
←戦国時代だけでなく、他の時代の遺跡が出ているので何とも?
〜〜〜〜〜
館を鎌倉の扇ヶ谷から糟谷館に移した扇ヶ谷上杉氏ですが、山内上杉顕定の謀略により扇ヶ谷上杉定正は家宰(執事)の太田道灌を呼出し湯屋で謀殺してしまいます。
その後、大黒柱を失った扇ヶ谷上杉氏の末路はご存知のとおりです。
発掘調査ては、一定の規模を持った障子堀が発見され、扇ヶ谷上杉氏の遺跡でよく発見される「渦巻きかわらけ」も出土しているので、糟谷館の可能性は高いと感じています。
一方の糟屋館の比定地である産業能率大学辺りの発掘では小規模の出土物しかないようなので、こちらの進捗も楽しみですね。
*注: 丸山城址公園はすでに完成しています。近いうちに寄ろうと思っているのでまた写真をアップします。
過去Blog
扇ヶ谷上杉家所縁の 七沢城 2014/5/30
深大寺城 2010/2/9
丸山城 地図
小田急線「伊勢原」駅下車、
駐車場:あり
トイレ :あり
近くには、糟屋館比定地。七沢城。愛甲城。荻野中山陣屋。
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