2017年9月7日木曜日

安曇野の 穂高氏館 (ほたかしやかた:長野)

長野県安曇野市6599、6601周辺
穂高氏館に近づく

穂高神社南角から西へ70mの大糸線踏切を越え最初の角を左折し、その先になります。

穂高氏は古代 安曇族末裔穂高神社神官でした。
館はこの辺り?

「でした」と書いたのは、
後に穂高氏の家勢が落ち、戦国時代には仁科氏が穂高神社神官を務めていたようです。
住宅街と田圃がある

前回同様に確たる情報を持たず訪れたのですが、
◎正確なポイントが打ってあるかは分からないがGoogleMap館跡が載っていた。
◎写真③の建物の向こう側(南)と木立の左方奥(東)は田んぼ、この理由から跡と判断しました。

の大きさが分からないが、写真で見えている範囲館内と考えて良いのではないだろうか!?
 と、自分はおもいます。


穂高氏館 地図 
JR 大糸線「穂高」駅下車、南へ600m

2017年9月5日火曜日

安曇野の 主水城(もんどじょう:長野)

長野県安曇野市穂高3103~3108周辺
主水城

等々力城支城で、等々力氏の家臣在城していました。
主水城先端部付近

南は川が流れ、北は川と湿地(現・ワサビ田)で東の先端部は先細りの要害です。残存遺構は無いようで案内板すら見当たりません。

手元の資料が乏しいので不安ですが ほぼこの場所で合っているとおもいます。
写真のように住宅が建っているので侵入不可能!
あまりジロジロ観察もできず撮影だけでココを離れました。

距離感は等々力家住宅大王ワサビ園の中間で、ちょい北側辺りです。

過去Blog:
2017/9/1  安曇野の 等々力城
2017/9/2 安曇野の 等々力氏館 と 等々力家本陣

主水城 地図
JR 大糸線「穂高」駅下車、東へ徒歩21分 1.9km
駐輪場:なし
トイレ:なし

2017年9月2日土曜日

安曇野の 等々力氏館 と 等々力家本陣(とどりきしやかた、とどりきけほんじん:長野)

◆等々力氏館
等々力氏館跡はこの辺り

安曇野で2城目、自転車漕いで600m!
東京世田谷等々力城(とどろき)がありますがコチラは「とどりき」になります。
農道を入る

奥への道は、農家の庭先のような雰囲気になってしまうので木立のところまでは進みませんでした。



等々力氏館 地図 1枚目の写真のところ
JR 大糸線「穂高」駅下車、1.3km 徒歩15分
駐車場:なし
トイレ :なし

◆等々力家
等々力家 長屋門

先の等々力氏館から200mほど
等々力家も元は等々力氏館の一部と考えてもよいのでは? と思うくらい近くです。
長屋門前の案内板

松本藩殿様が狩りをする際の休憩所とされたので本陣と呼ばれるそうです。
中に入ると書院ナドの建物や桃山様式の庭園がみられます。
等々力氏:
出自は古く、室町時代には仁科氏の被官であり、武田信玄五男 盛信仁科家名跡を継ぐとその傘下に入る。
大坂の陣では小笠原氏に従い出陣
江戸時代は代々庄屋となって今に続きます。

等々力本陣 地図

JR 大糸線「穂高」駅下車、東へ徒歩1.2km 15分
駐車場:あり
トイレ :あり

2017年9月1日金曜日

安曇野の 等々力城 (とどりきじょう:長野)

長野県安曇野市穂高2679-5付近
等々力城

㋇初旬に穂高駅前レンタサイクルを借り、700m程の等々力城にやって来ました。
最先端部にがあります。
等々力城内

写真を7枚ほど接いだので、かなりデフォルメされています。

城址は、舌状台地先端に位置し、城主等々力氏。
かつての周囲は湿地で、周辺にはワサビ田が点在してことから分かるように湧水豊富な要害地形であったようです。

気が付かなかっただけなのかもしれませんが、台地先端隔絶する堀は見受けられませんでした。

等々力城 地図
JR 大糸線「穂高」駅下車、東へ徒歩13分

駐車場:なし
トイレ:なし


2017年8月31日木曜日

大垣駅で時間待ちの間にい行った夜の 大垣城(おおがきじょう:岐阜)

岐阜県大垣市郭町2-52
天守と東口門

大坂京都廻りの帰りに大垣駅で乗換待ちが発生したので、夜遅くですがから一旦出て大垣城に来てみました。

ライトアップ終了か?
残念ながら着いた時点で天守は真っ暗!
東口門

同じように電車時間調整とおもわれる方が写真撮影をされてました。
東口門前から艮櫓

艮櫓も暗かったのですがかろうじて写ります。
東口門から駅前通り(県道57号線)

このあと誰も居なくなって怖いので、そそくさとに向かうのでありました。



過去Blog Link:
2014/9/17 大垣城 内郭
2014/9/13 大垣城 外郭

2017年8月28日月曜日

秀吉が築城した 妙顕寺城(みょうけんじじょう:京都)

京都府京都市
妙顕寺城址碑(西福寺前)

本能寺の変で散った織田信長仇敵明智光秀を討った豊臣秀吉1584年(天正12)に
この辺りの妙顕寺移転させ、新たに妙顕寺城を築き政庁とし旧・二条城廃城としたようです。
二条城は目と鼻の先!(拡大)


妙顕寺城がどのような縄張りかは分かりませんが、もしかしたら部分的に二条城と重なるのかな??
妙顕寺城址碑

ココから北西の位置に、すぐに聚楽弟を築き、妙顕寺城廃城としたようです。
今でも、古城町下古城町町名が残ります。

徳川家康は最終的に妙顕寺城の西、聚楽弟の南に二条城を築くコトになります。
閑院宮跡の碑

かつてこの場所は、妙顕寺城址碑から10mの西福寺東南角閑院宮家が存在しました。

での築城は、旧・二条城(織田)→妙顕寺城(豊臣)聚楽第(豊臣)二条城(徳川) となり、天下人の手で築いた、かつての壮麗な姿をみてみたいですね。

過去Blog!:
足利義輝邸跡 と 織田信長造営 旧・二条城 2017/8/22
二条城 Part1 2015/8/8
二条城 Part2 2015/8/8

妙顕寺城址碑 地図
地下鉄 東西線「二条城前」駅下車、2番出口から東へ徒歩3分
駐車場:コインパーキング(二条城PもOK)
トイレ :なし

2017年8月22日火曜日

足利義輝邸跡 と 織田信長造営 旧・二条城(あしかがよしてるてい、きゅう・にじょうじょう:京都)

◆織田信長が将軍義昭のために築いた旧・二条城
京都府京都市上京区五町目町
旧・二条城碑と案内板

花の御所から旧・二条城へ移動して参りました。
到着すると、暑かったのでしょう、外国の方がココに腰掛けていたので、撮影ポーズのボディアクション声掛けをしたが場所を開けてくれなかったので右下にカバンが写っています。
旧・二条城図案内板より

室町幕府第15代将軍 足利義昭の為に造営した城館で。義昭追放後誠仁親王の御所となりました。

本能寺の変が起きると、織田信忠入城。 誠仁親王城外に避難させたあとに明智軍攻撃を仕掛け落城。その後は廃城をなったようです。

宣教師ルイスフロイス普請現場織田信長訪問すると「信長自ら陣頭指揮で働いていた」と記述したのが この旧・二条城ですね!

指呼の間に2つの碑がある

地下鉄 烏丸線の工事旧・二条城石垣が見つかり、現・二条城内にその一部移設保存されております。



旧・二条城 地図 (案内板のところ)



◆斯波氏の武衛陣と第13代将軍 足利義輝邸
京都府京都市上京区五町目町152
武衛陣と足利義輝邸 碑

斯波氏は左兵衛督(中国風官職名は武衛)。そのため武衛陣と呼ばれていたが応仁の乱焼失

因みに、の南方に「武衛陣町」の町名が残っています。
武衛陣、足利義輝邸案内板から

応仁の乱から後、第13代将軍 足利義輝邸とし、室町幕府政務を執ります。
ところが、
松永秀久襲撃を受けると将軍義輝自ら剣を取り戦いましたが命を落とします。

剣豪将軍と伝わる足利義輝塚原卜伝の教えを受けたと云われておりまして、
昔、大河ドラマの中での義輝名刀を多数畳に突き立てておいて、が切れなくなると次々と持ち変えながらを切っていくシーンが私の脳裏に鮮烈にインプットされているのでありました。
足利家の中で好きな将軍です。

武衛陣、足利義輝邸跡 地図(案内板のところ)
地下鉄 烏丸線「烏丸丸太町」駅下車、2番出口から北西へ徒歩5分
駐車場:なし
トイレ:なし
*画像追加May,2018