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2018年1月6日土曜日

おめでとう御座います。吉見百穴、武州松山城(ひゃくあな、まつやまじょう:埼玉)

おめでとう御座います!
吉見百穴(国指定史跡)

年初は、武州松山城攻め武田信玄がココを見て坑道作戦を思いついた、とも云われる吉見百穴から。
岩室観音堂

百穴駐車場から歩いてすぐ! お堂の奥は岩壁松山城竪堀になっている。
岩室観音をくぐると竪堀

◆1月の予定
1/13 小田原シンポジウム「北条氏の絆」要申込。
1/14 相模原市立博物館、考古学講座「中世庭園から津久井城をみる」。
開催中~1/28 永青文庫細川家と天下泰平「関ヶ原からの40年」。
開催中~2/18 埼玉県立嵐山史跡の博物館「武蔵武士とその本拠」 。
開催中~3/10 国立公文書館「太田道灌と江戸」。
ナドへ行く予定です。

百穴 地図
岩室観音 地図
駐車場:百穴にあり、岩屋観音はそこから徒歩で!
トイレ:あり

2017年12月19日火曜日

ユネスコ世界記憶登録記念 上野三碑 シンポジウム(こうづけさんひ:東京)

東京都江東区青海
船の科学館駅前から東京国際交流館

お台場東京国際交流館上野三碑が「ユネスコ 世界記憶登録記念(2017/10/24)で群馬東京の2ヶ所のシンポジウム開催のうち東京の回です。
会場入口までポスター!

海外からは韓国から朱甫暾氏、盧重國氏、中国から拜根興氏。各国の教授を招いてのシンポなので他国との関係ナドを知るチャンス! と申込みました! それぞれ通訳付き講演。
金石文金属や石文字が刻まれた銘文。
シンポジウムの資料(全110ページ)

高句麗で多く造られ5世紀好太王碑ナド巨大なも建てられている、それが新羅に伝わると中国様式も加わり6世紀に最も盛んになり7世紀後半新羅では姿を消す。(当然、百済や任那にあります)
上野三碑7世紀後半から8世紀初頭に造られ、その後日本他の地方でも造られなっていきます。
韓国氏、氏ともに渡来した新羅石碑文化在地の融合で出来たと考えられるとしている。
近年、韓国では10年に1度くらい金石碑発見されているが破損状態発見されるものが多い。それに対して日本の総数は多くは無いが狭い範囲に三碑が良い状態で残っているのは特筆すべきである。

一方、中国日本金石研究に関して、日本に来た朝鮮通信使拓本を持帰り、それを朝貢した時に携えて行った。
それを元に日本金石研究が為された。現在では中国での日本金石研究の重要な資料となっている。

遠く、ベトナムハノイにも314年漢文金石碑があるので、それも含めて日本金石議論研究も必要となっていくであろう! とのことでした。

上野三碑
山上碑

多胡碑

金井沢碑
神亀3年(726)に三家氏が建てる。コチラも男女6人の個人名が刻まれている。中国・朝鮮半島では権力者以外には碑に名を刻まないそうです。

上野と渡来人
上野国にはが語源の甘楽(かんら)、他に韓科(からしな)の地名も当時あった。
氏によると多胡碑がある多胡郡を「胡とゆうのはしばしば文化的差異をみせる異邦人を指す単語である」ことから新羅人を中心にしたであろう、との見解です。
また、群馬県渋川市6世紀に起きた榛名火砕流で埋もれた 甲(甲冑)を着た人物発見され話題になりました。この人物調査渡来人であるとわかりました、とても興味深い結果ですね。

なんか文章にまとまりが無くて恐縮です。
上野上毛野氏、朝廷により移住させられた蝦夷(俘囚)・・・製鉄ナドの鉱脈探しや開発渡来人朝廷の意向入植したとも考えられるのしょうか?
すると、蝦夷は労働力として移住させられたのか??
調べても限界がありますが妄想が膨らみます!

*三碑は鞘堂の中にありガラス越し見学だったりしますが2018年3月9・10・11 日の3日間公開されます。
山上碑 地図
多胡碑 地図
金井沢碑 地図

2017年4月8日土曜日

「弥生時代の 大塚・歳勝土遺跡」過去blog再構築

2014/8/15付けのBlog「弥生時代の大塚・歳勝土遺跡」はエラーを起こして未完成だったので再構築しました。


さて、
明日4/9(日)は 茅ヶ崎城大塚・歳勝土遺跡から南南東へ直線4km程に小机城があります。そこで小机城址まつりが催されるので行くつもりですが、空模様がハッキリしないので心配です。

過去blogLink:
 2016/6/1 小机城
 2012/8/1 茅ヶ崎城

2015年11月4日水曜日

忍城水攻めで築いた 石田堤(いしだづつみ:埼玉)

埼玉県行田市埼玉 (埼玉古墳群 丸墓)
埼玉県行田市堤根999 (永徳寺)
行田市堤根-鴻巣市袋字台326-1 (コルコート埼玉第2工場の南から石田堤史跡公園の間)
石田三成本陣だった丸墓から忍城


今回は石田三成忍城水攻めのために築いたとされる石田堤を3か所廻りました。(8月下旬訪問)
石田堤(丸墓参道)
水攻めの堤とされていますが、高低差がなく微妙な感じです。

永徳寺に残る石田堤
丸墓のある埼玉古墳群から2.5kmほど南南西に来たところに永徳寺があります。
永徳寺に入り寺側から

いまは土塁上にはお堂が建っています。
石田堤碑

永徳寺から南へ700mほどのところ。
現在の残存塁

ココから400mほど南方にある石田堤史跡公園には時間の都合で寄っていません。
案内板

石田堤は、
○完成していた。
○豊臣秀吉の命令で石田三成が手掛けた?
○石田堤は当初から築かれなかった!
○開城まで間に合わず部分構築か?
○小田原開城前に忍城は開城していた!
さらに南方を見る

ナド所説ありますが、
ココは石田三成が延々と堤を構築して大洪水で寄せ手が大被害を被ったとゆう従来からの豪快なストーリーのままにしておきましょう!!




さきたま史跡の博物館H/P (国宝金錯銘鉄剣あり)

丸墓 MAP
永徳寺 MAP
石田堤石碑 MAP

JR高崎線「吹上」駅下車、北東へ2km
駐車場:無料(石田堤史跡公園)
トイレ :あり(石田堤史跡公園)

近くには、

2014年8月15日金曜日

弥生時代の 大塚・歳勝土遺跡 (おおつか、さいかちどいせき:神奈川)

神奈川県横浜市都筑区中川中央1-18-1
大塚・歳勝土遺跡全景

場所茅ヶ崎城から川を挟んで隣の台地で、 「センター北」駅からすぐの横浜市歴史博物館に向かう。
外から環濠集落をみる

歴史博物館のエレベーターで屋上階に上がり、遺跡公園連絡橋を利用して公園に向かいます。
環濠内ニ入ると

環濠建物の幾つかも再現されています。
高床式倉庫(復元)

建物跡の中には、火事の痕跡も発掘され、それらは戦いの中で焼け落ちたとの見方のようです(これらは歴史博物館で!)
連絡橋の歴博側から

環濠集落60%くらいは開発で削られているようです。
大塚遺跡案内板

吉野ヶ里とは比べようはありませんが・・・
現地に立つと大塚・歳勝土遺跡は意外と大きな遺跡だと感じます!
考えてみれば教科書にも載っていますね!
環濠の外にある遺跡地形模型

場所茅ヶ崎城から川を挟んで隣の台地にあり、 地下鉄「センター北」駅からすぐの横浜市歴史博物館から遺跡公園連絡橋を利用して遺跡公園に向かいます。

歳勝土遺跡、方形周溝墓(復元)

盛土をしてその上に復元されています。
歳勝土遺跡案内板

全般に分かりやすい展示が為されています。
方形周溝墓の溝を示す石列

場所茅ヶ崎城から川を挟んで隣の台地にあり、 地下鉄「センター北」駅近くの横浜市歴史博物館から遺跡公園連絡橋を利用して遺跡公園に入れます。

*この「大塚・歳勝土遺跡」は2014年に作成しましたが、画像errorのため再構築しました。

Link
横浜市歴史博物館H・P
過去blog: 2014/8/1 茅ヶ崎城

大塚・歳勝土遺跡 地図(横浜市歴史博物館から連絡橋で公園入口へ)
横浜市営地下鉄 ブルーライングリーンラインセンター北」駅下車、徒歩で南東400m

駐車場:あり(横浜市歴史博物館)
トイレ :あり

近くには、北側に隣接して都筑民家園。 南に茅ヶ崎城。 北西に都筑郡衙跡荏田城。 南西に佐江戸城。 南南東に小机城。南東に篠原城

2013年8月19日月曜日

国府台城 (こうのだいじょう:千葉)

千葉県市川市国府台3-9
第一次、第二次と 2度の国府台合戦の舞台でもある国府台城です。
国府台の由来は下総国府のある台地であるとゆうことです。

駅から江戸川沿いに上流へ向かえば到着できるようですが、今回は京成線国府台」駅から北の台地に向かい、下総の国府があったとされる国府台公園を過ぎ、国府台病院前の信号を西へ折れると里見公園にでます、そこが国府台城の跡です。


廃城後の時間経過と明治には陸軍が周辺を使用していたので城址はかなり改変されてしまっている可能性が高いです。
軍の資料を調べたわけでもないのですが軍が構築した土塁ナドが存在しているかもしれりません。 城址遺構であって欲しいとゆうレベルで書いてますのでご了承くださいまし。

主要部分は、古墳を削ったり残したり、そこに土塁を連ねたりしています。古墳の改変が著しく石棺が露出していなければ前方後円墳にはみえません。




北側の最先端部にも行ってみましたが、遺構がないかとウロウロと歩き回る様は不審者その物らしく近隣の方に胡散臭い目でみられました~
目の前の住宅では無くその先の林や丘を見ているのになぁ~






市川市歴史博物館:城の資料があるか?は不明。
市川市立考古博物館
京成線 「国府台」駅下車、北の台地に
駐車場:公園下の江戸川沿い(未確認)
トイレ:あり

近くには、北に松戸城。 
南東に国府跡、国分寺跡。 東に国分尼寺跡。

2011年8月15日月曜日

飛鳥の石造物 (あすかのせきぞうぶつ:奈良)

奈良県明日香村
大和郡山城と高取城のところで転用石に触れたので自分なりに分かる範囲で調べてみました。
■ 猿石5体(飛鳥に男、女、法師、権現4体+高取城1体。 高取町観覚寺の光永寺にある1体は除外)は
現在は吉備姫王墓に置かれている。 明日香村平野の畑で顔が半分露出(今昔物語にある石の鬼形か?)した状態にあったものが江戸時代元禄15年に欽明天皇陵近くで堀りだされたもの。
詳らかではありませんが高取城二の門前に鎮座している猿石はこのとき一緒に掘り出されとされています。
なので石垣転用石ではなく、国学が発達した元禄期から大切に扱われ二の門前に置かれた(守り神としたものか?)。
 いずれにしても石垣転用石ではなさそうである。 

■他の気になる石
 
酒船石: 矢穴を開けて割られているのに多くの部分が残っているのは何故?

鬼の俎鬼の雪隠: 俎と雪隠で石室を構成。
なぜか岡の上に底である俎だけが残る。矢穴が多数あいており割ろうをした形跡がある、何のために?
蓋である雪隠はひっくり返った状態で下方に転落して(させられて)いる。

もう一つの鬼の俎: 鬼の俎・鬼の雪隠の近くに同じような石室があったが、こちらは明治になってから割られ、個人宅の庭石にされてしまった! 現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外にこの割られた石が展示されています。
一説では、双墓で転落している鬼の雪隠はこちらの割られた俎とセットであったらしいのです。


これまで私は、これらの石は城の転用石にされてしまったのかと思っていましたが、必ずしもそうとは限らないようです。

それと鬼の俎や石舞台古墳は石室の上に覆い土があったはずなんですが、どんな経緯で剥がされてしまったのでしょう、
 はたして 飛鳥人があばいたのか?その後の人か?
 謎は尽きません。

猿石 MAP (吉備姫王墓)

2010年9月3日金曜日

太田道灌が物見台に使用した亀塚 (かめづか:東京)

東京都港区三田4-16-20
 三田の台地に小山が一つ・・・
この塚に太田道灌物見台を構えたそうです、その道灌の居城 御殿山城から2.5kmほどしかなく、江戸(東京)湾が見渡せるので物見台としてはうってつけであったのかもしれません
 北条氏綱vs扇ヶ谷朝興高輪原の戦いの頃は機能していたのでしょうか??
現在は、亀塚公園となり、台地続きの三田台公園には伊皿子貝塚があるあります。  ところで、といえば墳墓を連想しますよね! このは発掘物が少なく古墳である確証がえられないらしい!?  物見台を構築したときに破壊されたのか? すべては歴史のみぞ知る です。


亀塚 地図
JR山の手線、京浜東北線、「田町」駅下車 南西へ900m
メトロ三田線、浅草線「三田」駅下車 南西へ800m 。浅草線「泉岳寺」駅下車 北へ600m。

近くには、南南西に東海道の高輪大木戸跡 石垣が残る(泉岳寺駅降りてすぐ)。 南西に四十七志の墓地がある泉岳寺。南へ向かい品川駅を過ぎると御殿山城

2010年7月27日火曜日

山代二子塚古墳 (やましろふたごつかこふん:島根)

島根県松江市山代町
 構築は6世紀、全長94m(外堤を含めると150m)の前方後方墳で、島根県最大 とゆうことで見学にいってみました。
まずはガイダンス山代の郷で事前調査! 

 と思ったところ、


職員の方が
 「コッチです!」 と建物を出てイロイロと解説をしながらズンズンと歩いて行くではありませんか~も頷きながら付いて行き、
後方部まで来ると、
 「ここは軍隊がこの辺りまで削りこの周囲で演習をやってしまったのです!」
えっ! 墳丘を削ってしまったのですか~?
更に入口へ歩み、
 「この中で断面を見られます。 元の形に修復したときに土層展示室を造り公開していて、他では掘る許可が出ないから断面が見られるのはココだけ
ですよ!」 と教えてくれました。
更に断面展示の中で解説を聞き、最後には内部で写真まで撮っていただきました 
いろいろ勉強になりました、感謝です!

山代二子塚古墳 MAP
JR山陰本線松江」駅下車 バス15分、山代町下車徒歩2分。南東方向
駐車場:ガイダンス山代の郷(18台) 時間外は閉鎖。休館日あり
トイレ: 同上
ガイダンス山代:周辺史跡を模型・映像などで展示
この周囲に、大庭鶏塚、山代方墳があり、最高首長一族の墳墓であると考えられる。