岐阜県大垣市郭町2-52
天守と東口門
大坂・京都廻りの帰りに大垣駅で乗換待ちが発生したので、夜遅くですが駅から一旦出て大垣城に来てみました。
ライトアップ終了か?
残念ながら着いた時点で天守は真っ暗!
東口門
同じように電車時間調整とおもわれる方が写真撮影をされてました。
東口門前から艮櫓
艮櫓も暗かったのですがかろうじて写ります。
東口門から駅前通り(県道57号線)
このあと誰も居なくなって怖いので、そそくさと駅に向かうのでありました。
過去Blog Link:
2014/9/17 大垣城 内郭
2014/9/13 大垣城 外郭
城郭ページ! 関東の後北条系の城メインで、 範囲は古代山城から近世城郭まで! その他、遺跡、寺院、伝統芸能、ナドも・・・ *過去Blogは「県名」「石垣」「古墳」ナド ラベルのキーワードで検索してください。
2017年8月31日木曜日
2017年8月28日月曜日
秀吉が築城した 妙顕寺城(みょうけんじじょう:京都)
京都府京都市中京区古城町376
妙顕寺城址碑(西福寺前)
本能寺の変で散った織田信長の仇敵の明智光秀を討った豊臣秀吉は1584年(天正12)に
この辺りの妙顕寺を移転させ、新たに妙顕寺城を築き政庁とし旧・二条城は廃城としたようです。
二条城は目と鼻の先!(拡大)
妙顕寺城がどのような縄張りかは分かりませんが、もしかしたら部分的に二条城と重なるのかな??
妙顕寺城址碑
ココから北西の位置に、すぐに聚楽弟を築き、妙顕寺城は廃城としたようです。
今でも、古城町、下古城町の町名が残ります。
徳川家康は最終的に妙顕寺城の西、聚楽弟の南に二条城を築くコトになります。
閑院宮跡の碑
かつてこの場所は、妙顕寺城址碑から10mの西福寺の東南角に閑院の宮家が存在しました。
都での築城は、旧・二条城(織田)→妙顕寺城(豊臣)→聚楽第(豊臣)→二条城(徳川) となり、天下人の手で築いた、かつての壮麗な姿をみてみたいですね。
過去Blog!:
足利義輝邸跡 と 織田信長造営 旧・二条城 2017/8/22
妙顕寺城址碑 地図
地下鉄 東西線「二条城前」駅下車、2番出口から東へ徒歩3分
駐車場:コインパーキング(二条城PもOK)
トイレ :なし
妙顕寺城址碑(西福寺前)
本能寺の変で散った織田信長の仇敵の明智光秀を討った豊臣秀吉は1584年(天正12)に
この辺りの妙顕寺を移転させ、新たに妙顕寺城を築き政庁とし旧・二条城は廃城としたようです。
二条城は目と鼻の先!(拡大)
妙顕寺城がどのような縄張りかは分かりませんが、もしかしたら部分的に二条城と重なるのかな??
妙顕寺城址碑
ココから北西の位置に、すぐに聚楽弟を築き、妙顕寺城は廃城としたようです。
今でも、古城町、下古城町の町名が残ります。
徳川家康は最終的に妙顕寺城の西、聚楽弟の南に二条城を築くコトになります。
閑院宮跡の碑
かつてこの場所は、妙顕寺城址碑から10mの西福寺の東南角に閑院の宮家が存在しました。
都での築城は、旧・二条城(織田)→妙顕寺城(豊臣)→聚楽第(豊臣)→二条城(徳川) となり、天下人の手で築いた、かつての壮麗な姿をみてみたいですね。
過去Blog!:
足利義輝邸跡 と 織田信長造営 旧・二条城 2017/8/22
二条城 Part1 2015/8/8
二条城 Part2 2015/8/8妙顕寺城址碑 地図
地下鉄 東西線「二条城前」駅下車、2番出口から東へ徒歩3分
駐車場:コインパーキング(二条城PもOK)
トイレ :なし
2017年8月22日火曜日
足利義輝邸跡 と 織田信長造営 旧・二条城(あしかがよしてるてい、きゅう・にじょうじょう:京都)
◆織田信長が将軍義昭のために築いた旧・二条城
京都府京都市上京区五町目町
旧・二条城碑と案内板
花の御所から旧・二条城へ移動して参りました。
到着すると、暑かったのでしょう、外国の方がココに腰掛けていたので、撮影ポーズのボディアクションと声掛けをしたが場所を開けてくれなかったので右下にカバンが写っています。
旧・二条城図案内板より
室町幕府第15代将軍 足利義昭の為に造営した城館で。義昭を追放後は誠仁親王の御所となりました。
本能寺の変が起きると、織田信忠が入城。 誠仁親王を城外に避難させたあとに明智軍が攻撃を仕掛け落城。その後は廃城をなったようです。
宣教師ルイスフロイスが普請現場の織田信長を訪問すると「信長自ら陣頭指揮で働いていた」と記述したのが この旧・二条城ですね!
、
指呼の間に2つの碑がある
地下鉄 烏丸線の工事で旧・二条城の石垣が見つかり、現・二条城内にその一部が移設保存されております。
旧・二条城 地図 (案内板のところ)
◆斯波氏の武衛陣と第13代将軍 足利義輝邸
京都府京都市上京区五町目町152
武衛陣と足利義輝邸 碑
斯波氏は左兵衛督(中国風官職名は武衛)。そのため武衛陣と呼ばれていたが応仁の乱で焼失。
因みに、碑の南方に「武衛陣町」の町名が残っています。
武衛陣、足利義輝邸案内板から
応仁の乱から後、第13代将軍 足利義輝邸とし、室町幕府の政務を執ります。
ところが、
松永秀久の襲撃を受けると将軍義輝は自ら剣を取り戦いましたが命を落とします。
剣豪将軍と伝わる足利義輝は塚原卜伝の教えを受けたと云われておりまして、
昔、大河ドラマの中での義輝は名刀を多数畳に突き立てておいて、刀が切れなくなると次々と持ち変えながら敵を切っていくシーンが私の脳裏に鮮烈にインプットされているのでありました。
足利家の中で好きな将軍です。
武衛陣、足利義輝邸跡 地図(案内板のところ)
地下鉄 烏丸線「烏丸丸太町」駅下車、2番出口から北西へ徒歩5分
駐車場:なし
トイレ:なし
*画像追加May,2018
京都府京都市上京区五町目町
旧・二条城碑と案内板
花の御所から旧・二条城へ移動して参りました。
到着すると、暑かったのでしょう、外国の方がココに腰掛けていたので、撮影ポーズのボディアクションと声掛けをしたが場所を開けてくれなかったので右下にカバンが写っています。
旧・二条城図案内板より
室町幕府第15代将軍 足利義昭の為に造営した城館で。義昭を追放後は誠仁親王の御所となりました。
本能寺の変が起きると、織田信忠が入城。 誠仁親王を城外に避難させたあとに明智軍が攻撃を仕掛け落城。その後は廃城をなったようです。
宣教師ルイスフロイスが普請現場の織田信長を訪問すると「信長自ら陣頭指揮で働いていた」と記述したのが この旧・二条城ですね!
、
指呼の間に2つの碑がある
地下鉄 烏丸線の工事で旧・二条城の石垣が見つかり、現・二条城内にその一部が移設保存されております。
旧・二条城 地図 (案内板のところ)
◆斯波氏の武衛陣と第13代将軍 足利義輝邸
京都府京都市上京区五町目町152
武衛陣と足利義輝邸 碑
斯波氏は左兵衛督(中国風官職名は武衛)。そのため武衛陣と呼ばれていたが応仁の乱で焼失。
因みに、碑の南方に「武衛陣町」の町名が残っています。
武衛陣、足利義輝邸案内板から
応仁の乱から後、第13代将軍 足利義輝邸とし、室町幕府の政務を執ります。
ところが、
松永秀久の襲撃を受けると将軍義輝は自ら剣を取り戦いましたが命を落とします。
剣豪将軍と伝わる足利義輝は塚原卜伝の教えを受けたと云われておりまして、
昔、大河ドラマの中での義輝は名刀を多数畳に突き立てておいて、刀が切れなくなると次々と持ち変えながら敵を切っていくシーンが私の脳裏に鮮烈にインプットされているのでありました。
足利家の中で好きな将軍です。
武衛陣、足利義輝邸跡 地図(案内板のところ)
駐車場:なし
トイレ:なし
*画像追加May,2018
2017年8月19日土曜日
応仁の乱に関わる、花の御所 或は 室町殿(はなのごしょ、むろまちどの:京都)
◆同志社大学 観梅館の遺構
京都府京都市上京区御所八幡町103
観梅館の北東に展示
足利将軍家の邸宅である花の御所(室町殿)。時と共に変遷はありますが、室町家の花邸と今出川家の菊邸、この2つの邸を併せた土地で、北は上立売通り、西は室町小路、東は今出川通りに囲まれ広大な敷地を有していました。
温室のような三角ガラスの中
中を覗くと石敷遺構が見える。
移設展示
案内板ではレプリカもあるようなので、どこまでが本物か? は未確認です。
案内板
出土した石敷き遺構は、同時代の上杉本「洛中洛外図屏風」と位置関係が符合するそうです。
観梅館 地図 (遺跡展示のところ)
◆大聖寺「花の御所」石碑
京都府京都市上京区烏丸通今出川上る御所八幡町109
次は、南に隣接する大聖寺へ
お寺の塀の周りで「花の御所」石碑を探して見つからず!
あとで確認したら大聖寺の門の内側にあるようです。
目の前をウロウロしてたのに、あの中に有ったとは!
大聖寺:花の御所の1部の岡松殿をお寺にしたところで、お寺は何度か移転しているようですが花の御所敷地内に存在しています。
大聖寺 地図 (花の御所石碑)
◆足利将軍室町邸 石碑
京都府京都市上京区築山南半町
そして3ヵ所目は、花の御所の南西角にある「足利将軍室町邸」石碑を探しに今出川通りまで移動!
分り易い交差点なのに何故か見つけられず、炎天下のサイクリングでボケていたようです。
足利将軍室町邸跡 地図
京都は幾度となく来ていて知ったようなところですが、今回は写真の不発もあり、以前からちゃんと見とけば良かったと後悔の旅でした。
しかし、都の夏はアツイ!
*オマケ
京都市役所で本能寺発掘調査をしていました
勿論、本能寺の変の場所ではなく、豊臣秀吉が御土居と寺町を整備した時に移転してきた現・本能寺の遺跡で寺の北辺に当たるそうです。
京都府京都市上京区御所八幡町103
観梅館の北東に展示
足利将軍家の邸宅である花の御所(室町殿)。時と共に変遷はありますが、室町家の花邸と今出川家の菊邸、この2つの邸を併せた土地で、北は上立売通り、西は室町小路、東は今出川通りに囲まれ広大な敷地を有していました。
温室のような三角ガラスの中
中を覗くと石敷遺構が見える。
移設展示
案内板ではレプリカもあるようなので、どこまでが本物か? は未確認です。
案内板
出土した石敷き遺構は、同時代の上杉本「洛中洛外図屏風」と位置関係が符合するそうです。
観梅館 地図 (遺跡展示のところ)
◆大聖寺「花の御所」石碑
京都府京都市上京区烏丸通今出川上る御所八幡町109
次は、南に隣接する大聖寺へ
お寺の塀の周りで「花の御所」石碑を探して見つからず!
あとで確認したら大聖寺の門の内側にあるようです。
目の前をウロウロしてたのに、あの中に有ったとは!
大聖寺:花の御所の1部の岡松殿をお寺にしたところで、お寺は何度か移転しているようですが花の御所敷地内に存在しています。
大聖寺 地図 (花の御所石碑)
◆足利将軍室町邸 石碑
京都府京都市上京区築山南半町
そして3ヵ所目は、花の御所の南西角にある「足利将軍室町邸」石碑を探しに今出川通りまで移動!
分り易い交差点なのに何故か見つけられず、炎天下のサイクリングでボケていたようです。
足利将軍室町邸跡 地図
京都は幾度となく来ていて知ったようなところですが、今回は写真の不発もあり、以前からちゃんと見とけば良かったと後悔の旅でした。
しかし、都の夏はアツイ!
*オマケ
京都市役所で本能寺発掘調査をしていました
勿論、本能寺の変の場所ではなく、豊臣秀吉が御土居と寺町を整備した時に移転してきた現・本能寺の遺跡で寺の北辺に当たるそうです。
2017年8月18日金曜日
応仁の乱勃発の地 御霊神社(ごりょうじんじゃ:京都)
京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
上御霊社 西門(楼門、伝・伏見城の遺構)
近頃応仁の乱で盛上っていまねー!
その勃発地点、御霊神社=上御霊社にやって来ました!
西門(楼門)道路脇の案内板
上御霊社合戦は、山名宗全らと軋轢が生じて身の危険を感じた畠山政長が自邸を焼き上御霊社に陣を構えました。 そこを畠山政就を推す山名宗全らの軍勢が取囲み合戦に及びました。
楼門から西をみる
西門(楼門)の先には今出川が堀として機能。この西から山名政豊が攻撃。
南門(四脚門)
南は、堀と相国寺の藪があり、コチラも要害です。 この南からは畠山義就が攻撃します。
そして、北側からの攻撃は朝倉義景。 北と東側はあまり要害では無かったようです。 因みに東側は住宅街でした。
かくして、援軍を得られず劣勢の畠山政長は落ちてゆき、この後応仁の乱へ突入してゆきます。
最近は書籍やTVで盛んに取り上げられているので、わたしが書くまでのことは無さそうですが雰囲気だけでも伝われば良しとします!!
上御霊社(御霊神社) 地図
地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅下車、1番出口から東南へ徒歩2分
上御霊社 西門(楼門、伝・伏見城の遺構)
近頃応仁の乱で盛上っていまねー!
その勃発地点、御霊神社=上御霊社にやって来ました!
西門(楼門)道路脇の案内板
上御霊社合戦は、山名宗全らと軋轢が生じて身の危険を感じた畠山政長が自邸を焼き上御霊社に陣を構えました。 そこを畠山政就を推す山名宗全らの軍勢が取囲み合戦に及びました。
楼門から西をみる
西門(楼門)の先には今出川が堀として機能。この西から山名政豊が攻撃。
南門(四脚門)
南は、堀と相国寺の藪があり、コチラも要害です。 この南からは畠山義就が攻撃します。
そして、北側からの攻撃は朝倉義景。 北と東側はあまり要害では無かったようです。 因みに東側は住宅街でした。
かくして、援軍を得られず劣勢の畠山政長は落ちてゆき、この後応仁の乱へ突入してゆきます。
最近は書籍やTVで盛んに取り上げられているので、わたしが書くまでのことは無さそうですが雰囲気だけでも伝われば良しとします!!
上御霊社(御霊神社) 地図
地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅下車、1番出口から東南へ徒歩2分
2017年8月17日木曜日
無念! 東山 霊山城 到達せず (りょうぜんじょう:京都)
京都府京都市東山区清閑寺霊山町 附近
京都府京都市東山区清閑寺清水上山町 付近
結果からいえば、目的のお寺の門が閉ざされていて到達していません!
この日だけ閉ざされていたのか分かりませんが情報として載せておきます。
八坂の塔と霊山城方面
四条でレンタサイクルを借り建仁寺を過ぎようとしているところ。
自転車を漕ぐ足もこの時はまだ余裕!
維新の道
登り炎天下、もう少しですがココで息切れ、
自転車を霊山歴史館まで押し上げます。
護国神社と霊山歴史館の間
事前に行き方をwebで探ったところ、志士の墓地側からは登城不可能とのコトだったので、
さらに調べて正法寺から斜面を登るとショートカットできるらしい(非合法?)との情報をいくつか得たのでその様に行くのですが・・・
正法寺参道
先の護国神社から50mほど。
左側は霊明神社で神社の裏手には各藩の墓地がありました。
そして階段を上る!
京都府京都市東山区清閑寺清水上山町 付近
結果からいえば、目的のお寺の門が閉ざされていて到達していません!
この日だけ閉ざされていたのか分かりませんが情報として載せておきます。
八坂の塔と霊山城方面
四条でレンタサイクルを借り建仁寺を過ぎようとしているところ。
自転車を漕ぐ足もこの時はまだ余裕!
維新の道
登り炎天下、もう少しですがココで息切れ、
自転車を霊山歴史館まで押し上げます。
護国神社と霊山歴史館の間
事前に行き方をwebで探ったところ、志士の墓地側からは登城不可能とのコトだったので、
さらに調べて正法寺から斜面を登るとショートカットできるらしい(非合法?)との情報をいくつか得たのでその様に行くのですが・・・
正法寺参道
先の護国神社から50mほど。
左側は霊明神社で神社の裏手には各藩の墓地がありました。
そして階段を上る!
正法寺(元・霊山寺)
ナント! 門に閂がシッカリ通されていて中へ入れません!!
と、ゆうことで今回は撃沈!
次の機会に京都一周トレイルからリトライします。
霊山城:かつて霊山寺の塔頭が点在していた霊山(176m)の山頂が主郭です。
室町時代に足利義輝が築城、細川晴元、三好長慶ナドとの争いの場となり落城もしています。
*2020/9/14追加
正法寺の門に立入禁止札が!!
護国神社側と正法寺側 共に入れなくなっており将軍塚ナド東山トレイル経由しかないようです。
今回は時間が無かったので東山トレイルから廻れませんでした!
JR「京都」駅下車、市バス 祇園方面「東山安井」バス停から徒歩10分+登山。
2017年8月16日水曜日
大阪城京橋口外の大手前1丁目にある移設石垣を3点 (いせついしがき:大坂)
大手前1丁目付近に展示されている大阪城の移設石垣を3ヶ所あげておきます。
ドーンセンター脇
元のように丁寧に組まれているそうで、場所はドーンセンターの北側面になります。
ドーンセンター案内板
同センターの建設で発見され、案内板によれば三の丸北端の石垣となっています。
ドーンセンター 地図
日経新聞社前
植込みが邪魔で石垣が見えないので、この角度でしか撮れない!
日経新聞社案内板
案内板によれば、元和6年(1620)頃に築いた旧・大和川(堀として利用!)の護岸石垣とおもわれるそうです。
日経新聞社石垣 地図
追手門小学校の壁に!
後方は北外堀です(京橋口門の堀)。
さらにアップで
コチラは豊臣期大坂城の移設石垣です。
校内のどこかの建物内に石垣が眠っているらしい⁉
追手門小学校石垣 地図
◆ドーンセンター(大阪府立男女共同参画・青少年センター)
大阪府大阪市中央区大手前1-3-49ドーンセンター脇
元のように丁寧に組まれているそうで、場所はドーンセンターの北側面になります。
ドーンセンター案内板
同センターの建設で発見され、案内板によれば三の丸北端の石垣となっています。
ドーンセンター 地図
◆日本経済新聞社前
大阪府大阪市中央区大手前1-1-1日経新聞社前
植込みが邪魔で石垣が見えないので、この角度でしか撮れない!
日経新聞社案内板
案内板によれば、元和6年(1620)頃に築いた旧・大和川(堀として利用!)の護岸石垣とおもわれるそうです。
日経新聞社石垣 地図
◆追手門小学校
大阪府大阪市中央区大手前1-3追手門小学校の壁に!
後方は北外堀です(京橋口門の堀)。
さらにアップで
コチラは豊臣期大坂城の移設石垣です。
校内のどこかの建物内に石垣が眠っているらしい⁉
追手門小学校石垣 地図
2017年8月15日火曜日
黒田藩蔵屋敷 長屋門 と 通天閣下の残念石(くらやしきながやもん、ざんねんいし:大坂)
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−82 (美術館脇)
黒田藩蔵屋敷 長屋門
この長屋門、現在は大阪市立美術館の門となっています。
横はこんな感じ
蔵屋敷の門だけに無骨な感じられず、
瓦のトップに大黒様の鬼瓦が乗ってます。
回り込んで裏から
長屋門内部は見られませんでしたが、けっこう広そうです。
大阪市立美術館正面
天王寺動物園 入場口(新世界ゲート)の上の通路に登ったところ。
案内板
茶臼山、慶沢園、市立美術館、てんしば、天王寺動物園を網羅しています。
歩くと広い!
「てんしば」から妖しい天守
長屋門から「てんしば」を抜け天王寺駅に向かおうとすると妖しい天守がビルの上に屹立しています!
駐車場:コインP
トイレ :公園内多数あり
大阪府大阪市浪速区恵美須東2-2附近
通天閣前の残念石
まわりに観光の方が休憩していたのでこんなにアップになってしまいました。
残念石
何故ココに?
小豆島に残る残念石を運んだものでしょうか?
新世界「だるま」にて
東国であまり馴染みのないハモ 旨かった~!
この後、京都駅へ向かうのでありました。
大阪城の残念石 地図 (通天閣の麓、スギ薬局前)
駐車場:近隣のコインパーキング
トイレ:商店街なので困らず
黒田藩蔵屋敷 長屋門
この長屋門、現在は大阪市立美術館の門となっています。
横はこんな感じ
蔵屋敷の門だけに無骨な感じられず、
瓦のトップに大黒様の鬼瓦が乗ってます。
回り込んで裏から
長屋門内部は見られませんでしたが、けっこう広そうです。
大阪市立美術館正面
天王寺動物園 入場口(新世界ゲート)の上の通路に登ったところ。
案内板
茶臼山、慶沢園、市立美術館、てんしば、天王寺動物園を網羅しています。
歩くと広い!
「てんしば」から妖しい天守
長屋門から「てんしば」を抜け天王寺駅に向かおうとすると妖しい天守がビルの上に屹立しています!
駐車場:コインP
トイレ :公園内多数あり
大阪府大阪市浪速区恵美須東2-2附近
通天閣前の残念石
まわりに観光の方が休憩していたのでこんなにアップになってしまいました。
残念石
何故ココに?
小豆島に残る残念石を運んだものでしょうか?
新世界「だるま」にて
東国であまり馴染みのないハモ 旨かった~!
この後、京都駅へ向かうのでありました。
大阪城の残念石 地図 (通天閣の麓、スギ薬局前)
駐車場:近隣のコインパーキング
トイレ:商店街なので困らず
2017年8月14日月曜日
大坂の陣。茶臼山本陣 と 安居神社(ちゃうすやまほんじん、やすいじんじゃ:大坂)
●茶臼山
大阪府大阪市天王寺区茶臼山1 付近
西の入口辺りから入ったところ
ココには天文年間に大塚城がありました。
大坂 冬の陣で徳川家康の本陣は茶臼山に陣取ったようです。 夏の陣では真田信繁が本陣を構えました。
同じ場所から一心寺
冬の陣ではココから一心寺の一帯に徳川家の兵が入りました。
すぐに頂上へ!
もう少し平らなところにポコリと盛上った小山を想像していましたが、予想以上に見通しが悪いですね!
茶臼山山頂
高楼を築かないと、徳川家康が眺めたであろう大坂城方面(北)も、真田信繁が見つめた徳川方(南)も窺えないのでは?
茶臼山、大坂の陣跡碑
三角点の記号が付いているけど三角点風かなぁ??
標高26m
西側に下りました
この河底池は、その昔和気清麻呂が台地を切り通して大和川を大阪湾にバイパスしようとした名残と云われますが。 真実のほどは置いといて! 完成していたら大坂城東部の湿地が変貌して防御の在り様も変わっていたかもしれませんね。
大坂の陣石碑
冬の陣:徳川と夏の陣:真田の両文字が刻まれています。
現地案内板
昨年の大河ドラマ絡みでイロイロ整備されたようです。
頂上の登頂記念案内板
証明書は公園の茶臼山ゲート正面の一心寺 存牟堂で発行しているようです。
茶臼山は古墳利用の陣城と思っていましたが、発掘調査で盛土は行われているが葺石や埴輪の破片ナドが出土せず、古墳とも、そうで無いとも判断が難しいそうです。
茶臼山 地図
JR 環状線。地下鉄 御堂筋線、谷町線「天王寺」駅下車、
近鉄 南大阪線「阿倍野橋」駅下車 、それぞれ北へ7~10分
駐車場:イージーパーク天王寺公園茶臼山(隣接・有料)
トイレ:あり
●安居神社
大阪府天王寺区逢坂1-3
安居神社入口
一心寺から逢坂(国道25号線)を挟んだ反対側です。
同じく逢坂の東方に見る四天王寺の塔
四天王寺は豊臣の一方の大将 毛利勝永の陣所でした。
細道をゆく
立て看板の参拝時間に注意!
こちらは表参道ではないようです。
真田幸村公像
最期の地、真田松の傍で休息している姿でしょうか?
社殿
縁起がわからないくらい古く、天慶5年(942)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられています。 近所の四天王寺の建立時期を思えばさもあらん!といったところです。
北の参道
大阪城がある上町台地の西の端に立地しているのがよく分かります。
西の参道
当時の参道下の低地は戦闘に適さないようです。
安居神社案内図
地図ナドには安居神社とか安居天満宮と2つの呼名が載っています。
付近に銘水も涌いているようですよ。
安居神社 地図 (写真の入口のところ)
駐車場:なし
トイレ:あり
大阪府大阪市天王寺区茶臼山1 付近
ココには天文年間に大塚城がありました。
大坂 冬の陣で徳川家康の本陣は茶臼山に陣取ったようです。 夏の陣では真田信繁が本陣を構えました。
同じ場所から一心寺
冬の陣ではココから一心寺の一帯に徳川家の兵が入りました。
すぐに頂上へ!
もう少し平らなところにポコリと盛上った小山を想像していましたが、予想以上に見通しが悪いですね!
茶臼山山頂
高楼を築かないと、徳川家康が眺めたであろう大坂城方面(北)も、真田信繁が見つめた徳川方(南)も窺えないのでは?
茶臼山、大坂の陣跡碑
三角点の記号が付いているけど三角点風かなぁ??
標高26m
西側に下りました
この河底池は、その昔和気清麻呂が台地を切り通して大和川を大阪湾にバイパスしようとした名残と云われますが。 真実のほどは置いといて! 完成していたら大坂城東部の湿地が変貌して防御の在り様も変わっていたかもしれませんね。
大坂の陣石碑
冬の陣:徳川と夏の陣:真田の両文字が刻まれています。
現地案内板
昨年の大河ドラマ絡みでイロイロ整備されたようです。
頂上の登頂記念案内板
証明書は公園の茶臼山ゲート正面の一心寺 存牟堂で発行しているようです。
茶臼山は古墳利用の陣城と思っていましたが、発掘調査で盛土は行われているが葺石や埴輪の破片ナドが出土せず、古墳とも、そうで無いとも判断が難しいそうです。
茶臼山 地図
JR 環状線。地下鉄 御堂筋線、谷町線「天王寺」駅下車、
近鉄 南大阪線「阿倍野橋」駅下車 、それぞれ北へ7~10分
駐車場:イージーパーク天王寺公園茶臼山(隣接・有料)
トイレ:あり
●安居神社
大阪府天王寺区逢坂1-3
安居神社入口
一心寺から逢坂(国道25号線)を挟んだ反対側です。
同じく逢坂の東方に見る四天王寺の塔
四天王寺は豊臣の一方の大将 毛利勝永の陣所でした。
細道をゆく
立て看板の参拝時間に注意!
こちらは表参道ではないようです。
真田幸村公像
最期の地、真田松の傍で休息している姿でしょうか?
社殿
縁起がわからないくらい古く、天慶5年(942)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられています。 近所の四天王寺の建立時期を思えばさもあらん!といったところです。
北の参道
大阪城がある上町台地の西の端に立地しているのがよく分かります。
西の参道
当時の参道下の低地は戦闘に適さないようです。
安居神社案内図
地図ナドには安居神社とか安居天満宮と2つの呼名が載っています。
付近に銘水も涌いているようですよ。
安居神社 地図 (写真の入口のところ)
駐車場:なし
トイレ:あり
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