相模湾沿いの国道135から離れ、230mほど走ると地図入り案内板がある。そこを右折して正面にこの駐車場案内がみえます。
石橋山古戦場碑
先の駐車場案内のとおり進み130m来ると、この石碑のところに出ます。
佐奈田霊社駐車場
朝早くに駐車場にとめ、周囲の写真を撮っていると、到着したクルマから「おはようございます!」と挨拶され、振向くと霊社のお坊さんでした。
佐奈田霊社 裏の参道
そのお坊さんと話しながら石段を登っていくと、
「今から境内案内をしましょうか?」と云われ、
お仕事が忙しくなければ・・・ と答えると、
「大丈夫です! ではコチラに・・・」と、ゆうことで案内していただいたのですが、これが講釈師のように流暢な(失礼!) ガイドで楽しく聞かせていただきました。
佐奈田霊社から古戦場附近
与一闘死の地はこの視界からは外れています。
佐奈田霊社(現在は真言宗、祭神は佐奈田与一義忠)
与一闘死の地はこの視界からは外れています。
佐奈田霊社(現在は真言宗、祭神は佐奈田与一義忠)
お坊さんのお話では、現在は真言宗で、明治維新の時に神仏分離出来ず、鳥居、銅鑼、注連縄、護摩壇、仏像、鏡、鎧姿の与一像と、神仏習合となっているので霊社と云うそうです。生きていた人間を祀るところで、日光東照宮ナドと共に全国でも数少ない所であると仰っていました。
与一塚と観音堂
お坊さんは、与一が鎧を着用したまま埋葬されていると仰っていました。
与一塚と観音堂
お坊さんは、与一が鎧を着用したまま埋葬されていると仰っていました。
ねじり畑(佐奈田与一 闘死の碑)
佐奈田霊社の参道階段下のそばに佐奈田与一義忠闘死の標柱があります。
ココは作物を植えても捻じれて生えるのでねじり畑と呼ばれているそうです。
文三堂(陶山文三家康供養塔)
与一の闘死後、その郎党 文三は敵方へ斬り込み壮絶な死を遂げました。 頼朝勢は300騎ほどしかいなかったので合戦場は狭い範囲に限られるようです。
案内板から
お坊さんに遠くに見える横浜ランドマークタワーの位置を教えてもらいました。
よく晴れた日には東京スカイツリーまで見えるそうです。 武蔵=634m恐るべし!
江戸城の残念石であろうか?
ねじり畑の近く、矢穴と□の刻印があったのが気になってweb検索したが分らず! 石垣とは関係ないのかもしれません。
帰り、国道135号線合流直前から小田原城天守
石橋山古戦場 地図
佐奈田霊社の参道階段下のそばに佐奈田与一義忠闘死の標柱があります。
ココは作物を植えても捻じれて生えるのでねじり畑と呼ばれているそうです。
文三堂(陶山文三家康供養塔)
与一の闘死後、その郎党 文三は敵方へ斬り込み壮絶な死を遂げました。 頼朝勢は300騎ほどしかいなかったので合戦場は狭い範囲に限られるようです。
案内板から
お坊さんに遠くに見える横浜ランドマークタワーの位置を教えてもらいました。
よく晴れた日には東京スカイツリーまで見えるそうです。 武蔵=634m恐るべし!
江戸城の残念石であろうか?
ねじり畑の近く、矢穴と□の刻印があったのが気になってweb検索したが分らず! 石垣とは関係ないのかもしれません。
帰り、国道135号線合流直前から小田原城天守
合戦経緯:
「平氏追討の綸旨を得た源頼朝は韮山の伊豆国 目代 山木の館を襲撃したあと、守りに堅い石橋山に布陣。頼朝方との合流を目指す。
「平氏追討の綸旨を得た源頼朝は韮山の伊豆国 目代 山木の館を襲撃したあと、守りに堅い石橋山に布陣。頼朝方との合流を目指す。
対する敵方 大庭景親はそうはさせじと、谷を隔てたところに布陣。南から来た伊東祐親は背後に布陣。これで挟撃されるカタチになり、しかも合流を目指した三浦勢は酒匂川の増水で渡河できず!
戦闘は、大庭景親の3000騎は源頼朝方 300騎に夜襲を仕掛け源頼朝軍は敗退。頼朝は辛くも安房国に落ちのび再起を計りました。」
石橋山古戦場 地図
0 件のコメント:
コメントを投稿