2012年2月29日水曜日

雪の江戸城 (えどじょう:東京)

東京都千代田区
冨士見櫓
巽櫓
 きょうは、珍しく午後まで雪が降り続いたので、滅多にみられない雪の江戸城富士見櫓をアップしてみます。
大手門。修復が始まりました。




すべて携帯画像

江戸城 地図 撮影はこのあたり。
大手門の多聞櫓の囲いは取れましたが、2012/3/19現在ココから入城ができない模様。

2012年2月21日火曜日

直江津の港近く、福島城 (ふくしまじょう:新潟)

新潟県上越市港町2-16
 
 
上杉景勝越後から会津転封になると、堀秀治45万石春日山城に入城。
しかし山城の不便さと海運管理のためか? 関川河口直江の津(港)近くに福島城を築きます。

その後氏が改易になると、
松平忠輝75万石入城、蔵王堂城と同様に川の氾濫に悩ませれ、数年後には高田城築城移転
福島城は完成後 たった7年で廃城となりました。

福島城に築かれた石垣腰巻石垣あったようです。 
現在は何も無いですが、45~75万石の持ち城ですから立派なであったことは想像に難くないです。
場所は佐渡汽船直江津埠頭から東南300mほどのところに古城小学校があり、そこに城址碑石垣遺物とおもわれるがあります。詳細な場所は分からず城址碑のところが必ずしも本丸とではないようです。

*写真撮影は2009年

福島城 地図
JR上越線直江津」駅下車 北東へ2.2km 30分
駐車場:なし
トイレ :なし
近くには、南西に御館、更に行くと春日山城。 南に高田城。 南南西に鮫ヶ尾城がある。

長岡城 (ながおかじょう:新潟)

新潟県長岡市城内町2
はじめに。
2009年の写真のため、現在は再開発により二の丸碑周辺は厚生会館も取壊され、だいぶ様子が変わっているようです。
堀直寄は、蔵王堂城信濃川の氾濫被害に悩まされ、長岡築城に着手するも完成前に移封
城主は牧野氏に代わり、その後に完成・移転。 正保の絵図をみると、北北西外れの蔵王堂城址に当たる安禅寺方形に囲まれた状態で描かれており廃城後も出城として機能していたようです。
 北越戦争->廃城->大戦の空襲 で荒廃し遺構は何も残ってなく、長岡駅前本丸跡碑。今はなき厚生会館前にも長岡城址碑二の丸跡碑のみがある。
跡も何もよく分からなくなっているが「大手通り」や「千手」ナドの名が残るのでなんとなく位置関係が分かります。


今の姿からは想像できませんが、大河ドラマの1シーンで官軍に奪われた長岡城を奪還するため、高橋英樹 扮する河合継之助率いる長岡藩兵が銃を掲げて八丁沖湿地帯を渡っていくシーンが瞼に浮かびます。  シミジミ~


リンク:長岡藩の志士(長岡城ナドの戊辰戦争の史跡を絵図面付きで紹介されています)
長岡城 地図
JR上越本線上越新幹線長岡」駅下車 駅前が本丸跡。
駐車場:駅前の有料駐車場へ
トイレ :駅周辺に多数あり

近くには、北に河合継之介記念館山本五十六記念館、少し離れて山本記念公園に山本五十六の復元生家と胸像あり。 北西には蔵王堂城。 北北東に河合継之介墓所がある栄涼寺。 東の坂之上小学校の伝統館に城址模型あり(要事前連絡)。 南東の悠久山公園に天守のカタチをした長岡資料館あり。 南東に栖吉城

2012年1月29日日曜日

蔵王堂城 (ざおうどうじょう:新潟)

新潟県長岡市西蔵王3-2
 最近は城廻りになかなかかけず画像がたまってしまっているので、しばらく蔵出し画像をアップしていきます。あしからず! 今回は2009年画像です。
 このときは、ホテルで自転車を借りて金峯神社が鎮座する蔵王公園を目指す。 長岡市街を楽しみながら走るとそれほど苦も無く二郭であった金峯神社に到着。 やはり、駐車場の心配もなく自由に廻れる自転車がいちばんですね♪
必死で漕いでいくと鳥居に到着。
参堂を進むと一の鳥居のあたりに二郭堀があったようですが開発で堀も土塁も無く状況がよくわかりません。社殿近くには案内板があります。 そこから西側にみえる(当時は無かった!)を渡ると蔵王堂城主郭です。
 主郭跡には城址碑堀直寄像井戸跡(城址遺構の再現であるか不明?)ナドがあり、毘沙門堂すぐうしろの土塁に登ると信濃川がすぐ近くを流れているのがわかります。
堀直寄信濃川氾濫に悩まされ、そのため長岡築城を決したほどであるので湿地が広がる要害の地であったのでしょう。
城は南北朝時代には存在していたようで、蔵王堂(蔵王権現)の辺りに築城したから蔵王堂城と呼ばれています。
遺構はその主郭土塁の一部しか残ってなく、主郭土塁北側は工場地。本丸の西にあったは一部住宅と信濃河川敷となってしまったようです。 
浄照寺も城内ですが、どのにあたるのでしょうか?
上杉領を二分した御館の乱では景勝方に攻められら落城。戊辰戦争でも陣として利用され、その時に荒れていた古城跡を改修されたのではないかともおもいます。
城主は、中条氏->古志長尾氏->景勝家臣->氏->松平氏->氏->牧野氏->廃城





栄涼寺:河合継之介墓所
 蔵王堂城 地図
JR信越本線北長岡」駅下車 西へ1.3km。JR 信越本線上越新幹線長岡」駅下車 北北東へ2.5km

近くには、南南東に山本五十六記念館長岡城。 南東に牧野氏と河合継之介の墓所がある栄涼寺

2012年1月18日水曜日

騎馬警官隊と江戸城 (えどじょう:東京)



正装ではないですが、騎馬警官隊とおもわれる一団が現れ、整列していたので携帯 パチリ!

前にも大使信任状捧呈式のための送迎馬車騎馬隊の先導で皇居から出てきたので、信号で足止めをくってしまいました~!
この送迎は馬車自動車のどちらか選べますが、やはり圧倒的に馬車を選択する方が多いそうです。
中世さながらのスタイルで馬車大手町皇居をぐるりと廻るのは気分がいいでしょうね

宮内庁-信任状捧呈式の際の馬車列のページ(馬車列の写真あり)
以下、宮内庁HPから
「 信任状捧呈式の際,儀装馬車によって新任の外国大使を明治生命館から宮殿南車寄まで送迎しています。
新任大使の送迎に馬車を使用している国は,世界的に見ても英国やスペインなど数か国ですが,わが国の場合,自動車より馬車を希望する大使が多く,国際親善の実を挙げています。
大使の送迎に使用する儀装馬車は,二頭曳き座馭式(ざぎょしき)と呼ばれ,そのほとんどが明治の終わりから昭和の初めに製造されたもので,美術品的価値も有しています。
馬車列は,天皇陛下のご即位や皇族方のご結婚などの皇室行事にも使われます。 」

*追加:2012/1/19 またまた、信任状奉呈式の送迎馬車と出会ったので画像アップ!

2011年12月18日日曜日

再び登城、川崎の寺尾城 part2(てらおじょう:神奈川)

神奈川県川崎市多摩区菅馬場2-30から寺尾台2丁目
以前にも「川崎の寺尾城」としてアップしました、今回のpart2は「まほろばの会」で里山保存活動をされており、城址保存を! と活動しておられる ちょめさん のお誘いです。

メンバーは、中世史に詳しい先生、市の文化財保護課の方、川崎市議の方々、まほろばの会の皆様。
 webブログ衆として「 ホテルマンしゅうちゃんの日記」主宰のしゅうちゃん(さん)と わたくしで現地調査にお邪魔してまいりました。

* 現地で話を聞き、歩いてみた纏め

 ■北側の馬場谷戸と南側のサム谷戸に挟まれ、東側は多摩川とその支流が流れ、その蛇行湿地中洲があり3方を守りやすい地形であった。 周囲には、沖河原ひうち島下島中の島 ナドの地名があり、河原中州が広く点在していた。

多摩川を挟み、東京都調布市上布田下布田。 川崎市にも布田とゆう地名があることから、多摩川の流路が変わったために分断されたものかと思います。
それにより、当時の多摩川多摩丘陵(寺尾城)寄りに流れていた可能性もある。<-要確認


地元ではがあったと伝わっている。「新編武蔵国風土記稿」の著者は地元の方に聞き取り調査はしたはず!

小沢城枡形山城のちょうど中間に位置し、見下ろせば高尾山から府中深大寺城付近の台地・調布への眺望が効き、台地堀切り分断してしまえば城郭として申し分ない地勢とみました。
堀底道のような遊歩道があり、谷側土塁状(堀残しか?)になっている。 前から気になっていたが、その土塁状の外側は1段平場(郭)に見える。
■今回、はじめて気がついたのだが、北西部分(ゲオの裏側)の中段には帯状平場があり腰郭とみられる。尚、この腰郭の北側(台地先端)は土砂崩れで立ち消えているようだ。
■現在残る城址最高所は鳥類の保護区域のためが酷く中には立ち入っておらず。
■残念ながら、先端付近台地上にある堀跡のような遺構ではなく土砂崩れ止排水溝だそうです。
しゅうちゃん(さん)が持参していた戦後の航空写真(山が削られる前)では、反対側(東)から現在残る竪堀の反対側に影が写っている。更に、その部分をGoogleEarthでみたところ植生に影があるので、今でも窪地になっているのではないだろうか? ここに想定ラインが見えてくるような・・・
公団造成で不明だが、移設復元された八角堂基壇のある公園脇は一段低く航空写真ナドでみると台地を切るのように見える。 <-あくまでも妄想!
諏訪氏系寺尾氏の同名のとして横浜市鶴見区埼玉県川越市ナドがありますが、横浜寺尾城町名鶴見区馬場である。う~ん! 「ばんば」=「ばば、城馬場を連想させる名だ。
因に、寺尾氏は早い時期から後北条家配下で重臣であったらしいです。


また時間をつくり、図書館へいき寺尾台開発発掘調査報告書を探してきます。
併せて、サム谷戸側の中腹にも小郭あるいは棄て郭痕がないか? 城址から台地付け根間のどこかに堀切があったのか? ナドナド、和紙公図古図があれば確認したいところです。
 ただサム谷戸は山際の道路直線に入ってきているので削られてしまったかもしれません。
主要部と思われるところは造成で消滅、公団内の公園移築復元された平安初期お寺八角堂基壇すらも造成される前は10数m高い位置に存在していました。
 ココからは武蔵国府国分寺あたりのと同系のものが出土してます。とゆうことは大丸城遺跡から出た窯跡で焼かれたなのでしょうか?

お話を伺った古老のお宅には100年前に掘出した 至徳元年(1384年)の年号が刻まれた観音さまの板碑が祀られており、近所の玉林寺さんにも同時代の板碑がありました。
ここに室町時代の有力者が住いしていたのでは? と先生も仰っていました。板碑は城とは直接関係ありませんがたいへん勉強になりました。

 いま残る森も何度も開発されそうになったが「まほろばの会」の皆さんが守り通し現在に至っているとのこと。
この里山保護活動をされている会の皆さんは、マンション開発計画をも退け、大切にされていて地元の方々のこの土地に対する愛情が伝わってきます。
また、府中調布はもとより高尾山からスカイツリーまで一望できるので良きヒーリングポイントとなっています。
最後に、城ブログをやっているだけの素人わたくしに声掛けをしていただきまして お礼申し上げます。
調査に参加の皆さま お疲れ様でした、そしてありがとう御座いました。

ホテルマンしゅうちゃんの日記」ご一緒したしゅうちゃん(さん)のBlog

*わたしの過去ブログ2011.1218「川崎の寺尾城」はこちら
寺尾城 MAP
JR南武線「稲田堤」駅下車、南南東へ1.2km。 京王線「京王稲田堤」駅下車 南東へ1.4km
JR南武線「中の島」駅下車 南西へ1.7km
駐車場:なし
トイレ :なし

2011年12月11日日曜日

滝の城 part2 現地説明会 (たきのじょう:埼玉)

埼玉県所沢市城537 埼玉県指定史跡
前々回ブログも「滝の城」でした、第1次発掘調査現地説明会がありましたので参加してきました。


城公民館で受付を済ませ現地(二の郭)へ向うと、
樹木が伐採されるなどしてたいへん見易くなって、主郭二の郭間のの中にあったトイレも撤去されていました。
以前とはだいぶ景観が違っていたのに驚きです~  <-前々回の写真が通用しないではないかーい!



気をとり直して、現地説明会へ、
発掘物はカワラケ片、すり鉢片、板碑片 ナドナド。
あとは、時代は下って江戸時代以降の地中深くに素掘り横穴(倉庫か?)。




二の郭主郭三の郭と順に案内していただき、
最後に地元の保存会の方がにココも見てくださいとおっしゃるので集団でゾロゾロと移動すると・・・
主郭三の郭間にあるの下はきれいになっていて2段削平地がみえるようになっています。




出土物は少ないですが、前回訪城時にわからなかったことも教えてもらい有意義に過ごさせていただきました。

解散後、周囲を歩いてみると藪の中に小さな平場が幾つかみうけられました。
発掘調査は、これから6ヵ年続くそうで、今年社務所を除く二の郭2012年三の郭
わたくしも来年の現地説明会に出没するかも・・・ です。

*交通等は2つ下の滝の城ブログをみてください。