以前にも「川崎の寺尾城」としてアップしました、今回のpart2は「まほろばの会」で里山保存活動をされており、城址保存を! と活動しておられる ちょめさん のお誘いです。
メンバーは、中世史に詳しい先生、市の文化財保護課の方、川崎市議の方々、まほろばの会の皆様。
webブログ衆として「 ホテルマンしゅうちゃんの日記」主宰のしゅうちゃん(さん)と わたくしで現地調査にお邪魔してまいりました。
* 現地で話を聞き、歩いてみた纏め
■北側の馬場谷戸と南側のサム谷戸に挟まれ、東側は多摩川とその支流が流れ、その蛇行で湿地・中洲があり3方を守りやすい地形であった。 周囲には、沖河原・ひうち島・下島・中の島 ナドの地名があり、河原、中州が広く点在していた。
多摩川を挟み、東京都調布市に上布田・下布田。 川崎市にも布田とゆう地名があることから、多摩川の流路が変わったために分断されたものかと思います。
それにより、当時の多摩川は多摩丘陵(寺尾城)寄りに流れていた可能性もある。<-要確認
■地元では城があったと伝わっている。「新編武蔵国風土記稿」の著者は地元の方に聞き取り調査はしたはず!
■小沢城と枡形山城のちょうど中間に位置し、見下ろせば高尾山から府中・深大寺城付近の台地・調布への眺望が効き、台地を堀切り分断してしまえば城郭として申し分ない地勢とみました。
■堀底道のような遊歩道があり、谷側は土塁状(堀残しか?)になっている。 前から気になっていたが、その土塁状の外側は1段の平場(郭)に見える。
■今回、はじめて気がついたのだが、北西部分(ゲオの裏側)の中段には帯状に平場があり腰郭とみられる。尚、この腰郭の北側(台地先端)は土砂崩れで立ち消えているようだ。
■現在残る城址最高所は鳥類の保護区域のため藪が酷く中には立ち入っておらず。
■残念ながら、先端付近台地上にある堀跡のような溝は遺構ではなく土砂崩れ止の排水溝だそうです。
■しゅうちゃん(さん)が持参していた戦後の航空写真(山が削られる前)では、反対側(東)から現在残る竪堀の反対側に影が写っている。更に、その部分をGoogleEarthでみたところ植生に影があるので、今でも窪地になっているのではないだろうか? ここに堀の想定ラインが見えてくるような・・・
■公団の造成で不明だが、移設復元された八角堂基壇のある公園脇は一段低く航空写真ナドでみると台地を切る堀のように見える。 <-あくまでも妄想!
■諏訪氏系寺尾氏の同名の城として横浜市鶴見区、埼玉県川越市ナドがありますが、横浜の寺尾城の町名も鶴見区馬場である。う~ん! 「ばんば」=「ばば」、城の馬場を連想させる名だ。
因に、寺尾氏は早い時期から後北条家配下で重臣であったらしいです。
また時間をつくり、図書館へいき寺尾台開発の発掘調査報告書を探してきます。
併せて、サム谷戸側の中腹にも小郭あるいは棄て郭痕がないか? 城址から台地付け根間のどこかに堀切があったのか? ナドナド、和紙公図や古図があれば確認したいところです。
ただサム谷戸は山際の道路が直線に入ってきているので削られてしまったかもしれません。
主要部と思われるところは造成で消滅、公団内の公園に移築復元された平安初期のお寺の八角堂基壇すらも造成される前は10数m高い位置に存在していました。
ココからは武蔵国府か国分寺あたりの瓦と同系のものが出土してます。とゆうことは大丸城の遺跡から出た窯跡で焼かれた瓦なのでしょうか?
お話を伺った古老のお宅には100年前に掘出した 至徳元年(1384年)の年号が刻まれた観音さまの板碑が祀られており、近所の玉林寺さんにも同時代の板碑がありました。
ここに室町時代の有力者が住いしていたのでは? と先生も仰っていました。板碑は城とは直接関係ありませんがたいへん勉強になりました。
いま残る森も何度も開発されそうになったが「まほろばの会」の皆さんが守り通し現在に至っているとのこと。
この里山の保護活動をされている会の皆さんは、マンション開発計画をも退け、大切にされていて地元の方々のこの土地に対する愛情が伝わってきます。
また、府中、調布はもとより高尾山からスカイツリーまで一望できるので良きヒーリングポイントとなっています。
最後に、城ブログをやっているだけの素人わたくしに声掛けをしていただきまして お礼申し上げます。
調査に参加の皆さま お疲れ様でした、そしてありがとう御座いました。
「ホテルマンしゅうちゃんの日記」ご一緒したしゅうちゃん(さん)のBlog
*わたしの過去ブログ2011.1218「川崎の寺尾城」はこちら
寺尾城 MAP
JR南武線「稲田堤」駅下車、南南東へ1.2km。 京王線「京王稲田堤」駅下車 南東へ1.4km
JR南武線「中の島」駅下車 南西へ1.7km
駐車場:なし
トイレ :なし
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