2020年6月2日火曜日

阿弥陀寺の織田信長墓、十念寺の曲直瀬道三墓 、 本満寺の山中鹿之介墓(あみだじ、じゅうねんじ、ほんまんじ:京都)

本日6月2日本能寺の変で没した信長命日であり、 大河ドラマ麒麟がくる」放映中なので、過去に訪れた中から京都市上京寺町通り沿いに隣接するお寺を北から織田信長公本廟がある阿弥陀寺から十念寺本満寺と廻ります。

■阿弥陀寺 (織田信長、信忠と森蘭丸ら家臣の墓所)
京都府京都市上京区今出川上る鶴山町2-4
阿弥陀寺

お寺を創建した清玉上人織田家と縁が深かったので織田家のお墓が多くあります。

この阿弥陀寺は元は今出川大宮の辺りにありまたが豊臣秀吉によりこの地に移されました。

本坊

数ある織田信長公廟所の中でココには本廟があります。

一般的な本能寺の変では御殿に火をかけ切腹したとなっていますが、
その後があり、の一報を受けた阿弥陀寺清玉上人を引き連れ本能寺へ駆けつけると、切腹した信長の亡骸家臣本能寺外の藪に退避させ、荼毘に付されようとしているところに出会い、その亡骸阿弥陀寺まで引き取ってきたので阿弥陀寺廟所があるとなっています。


渡り廊下の先に廟所がある

上記の話が本当であるなら疑問点が2点!
包囲されている最中に亡骸を運び出すのは並大抵ではないので、怪我を負った信長家臣が脱出誘導し 藪で切腹したのか?
また、荼毘にしようとしていたとの記述は、から立ち上った煙を見て明智軍が不審に思い駆けつけるのでは??
脱出に関しては、塀の破れなど脱出穴があっても差し支え無いでしょう。 
ナドと、素人の疑問です。


廟所

正面に信長、信忠父子墓所
周囲には森蘭丸ほか家臣たちのがあります。
他にも織田家と家臣のお墓があります。
灯篭

信長忌の日(毎年6/2)には織田信長公座像公開されています。
この座像は亡くなって程なく制作されたので本人に姿が近いと云われています。





京阪本線叡山電鉄 叡山本線出町柳」駅下車、西北西へ徒歩10分
駐車場:コインP 寺町通り沿い数か所あり
トイレ:未確認



■十念寺 (医師 曲直瀬道三墓所)
京都府京都市上京区鶴山町13
十念寺

歴史小説を読んでいると良く名前があがる曲直瀬道三室町~桃山時代に活躍!
その道三墓所があります。

十念寺は門の写真のみです。


曲直瀬道三永承4年(1507)~文禄3年(1594)。
都の禅寺足利学校で学んでいる間に医療に目覚めていったようです。
天文12年(1546)に上りで医師として活躍。
皇室将軍義輝細川勝元三好長慶毛利元就ナドを診療し、織田信長からはお香 蘭奢待下賜されています。
また、啓迪院とゆう医学校を創設するなど医療に尽力しました。

京阪本線叡山電鉄 叡山本線出町柳」駅下車、西北西へ徒歩8分
駐車場:コインP 寺町通り沿い数か所あり
トイレ:未確認




■本満寺 (山中鹿之介墓所)
京都府京都市上京区今出川2-16
本満寺

ココが寺町通り沿いの参道になります、
クルマの場合は入ってすぐ左にコインパーキングがあります。

門前の石碑アップ

山中鹿助幸盛尼子家再興のため何度も立上がった忠義の臣として知られ私も大ファンであります。
尼子家は毛利元就によって滅亡!
尼子家臣である山中鹿介僧籍に入っていた当主の弟晴久を還俗させ尼子家を再興月山富田城を回復します。
紆余曲折があり、最後は織田方として毛利と戦ったが織田・羽柴秀吉に見放され籠っていた上月城落城し捕らえられた山中鹿助備中高梁川毛利方により成敗された。

山中鹿助幸盛墓所

左側の石碑には「尼子忠臣山中幸盛卿之墓」と刻まれています。

発音は「しかのすけ」ですが墓石文書には鹿介となっており、過去Blogの月山富田城鹿介と記述したので今回もそのままでいきます。
参道の石碑には鹿之助となっております。


お堂前のハス





京阪本線叡山電鉄 叡山本線出町柳」駅下車、西北西へ徒歩7分
駐車場:コインPあり(1park本満寺)
トイレ:未確認

*出町柳駅近くにレンタル自転車「エムジカ」あり
応仁の乱勃発の地である御霊神社も徒歩5分ほど。

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