2017年12月19日火曜日

ユネスコ世界記憶登録記念 上野三碑 シンポジウム(こうづけさんひ:東京)

東京都江東区青海
船の科学館駅前から東京国際交流館

お台場東京国際交流館上野三碑が「ユネスコ 世界記憶登録記念(2017/10/24)で群馬東京の2ヶ所のシンポジウム開催のうち東京の回です。
会場入口までポスター!

海外からは韓国から朱甫暾氏、盧重國氏、中国から拜根興氏。各国の教授を招いてのシンポなので他国との関係ナドを知るチャンス! と申込みました! それぞれ通訳付き講演。
金石文金属や石文字が刻まれた銘文。
シンポジウムの資料(全110ページ)

高句麗で多く造られ5世紀好太王碑ナド巨大なも建てられている、それが新羅に伝わると中国様式も加わり6世紀に最も盛んになり7世紀後半新羅では姿を消す。(当然、百済や任那にあります)
上野三碑7世紀後半から8世紀初頭に造られ、その後日本他の地方でも造られなっていきます。
韓国氏、氏ともに渡来した新羅石碑文化在地の融合で出来たと考えられるとしている。
近年、韓国では10年に1度くらい金石碑発見されているが破損状態発見されるものが多い。それに対して日本の総数は多くは無いが狭い範囲に三碑が良い状態で残っているのは特筆すべきである。

一方、中国日本金石研究に関して、日本に来た朝鮮通信使拓本を持帰り、それを朝貢した時に携えて行った。
それを元に日本金石研究が為された。現在では中国での日本金石研究の重要な資料となっている。

遠く、ベトナムハノイにも314年漢文金石碑があるので、それも含めて日本金石議論研究も必要となっていくであろう! とのことでした。

上野三碑
山上碑

多胡碑

金井沢碑
神亀3年(726)に三家氏が建てる。コチラも男女6人の個人名が刻まれている。中国・朝鮮半島では権力者以外には碑に名を刻まないそうです。

上野と渡来人
上野国にはが語源の甘楽(かんら)、他に韓科(からしな)の地名も当時あった。
氏によると多胡碑がある多胡郡を「胡とゆうのはしばしば文化的差異をみせる異邦人を指す単語である」ことから新羅人を中心にしたであろう、との見解です。
また、群馬県渋川市6世紀に起きた榛名火砕流で埋もれた 甲(甲冑)を着た人物発見され話題になりました。この人物調査渡来人であるとわかりました、とても興味深い結果ですね。

なんか文章にまとまりが無くて恐縮です。
上野上毛野氏、朝廷により移住させられた蝦夷(俘囚)・・・製鉄ナドの鉱脈探しや開発渡来人朝廷の意向入植したとも考えられるのしょうか?
すると、蝦夷は労働力として移住させられたのか??
調べても限界がありますが妄想が膨らみます!

*三碑は鞘堂の中にありガラス越し見学だったりしますが2018年3月9・10・11 日の3日間公開されます。
山上碑 地図
多胡碑 地図
金井沢碑 地図

2017年12月12日火曜日

小田原城 早川口 二重戸張土塁 調査見学会(おだわらじょうはやかわぐちふたえとばり:神奈川)

神奈川県小田原市南町4-4
小田原駅西口「早雲公」像

2017/12/2に 早川口 二重戸張発掘による調査見学会があったので行ってきました。 
まずは、駅で早雲公に挨拶して徒歩で20分程遺構を目指します。
早川口遺構入口(国道135号沿い)

小田原から国道1号線135号線の「早川口交差点を越え80m程でこのポイントに着きます。
早川口遺構入口

現場は、それほど広い範囲ではありませんが、想定外!が幾つか有りました。
3トレンチ

入ってすぐ左側。
受付で資料をいただきました

現場の説明をかいつまんで、
①この場所での発掘は初めてである。
②明治時代に庭園として改変されている。
③二重土塁間の堀とされる窪みは江戸時代に水田だった。
④その窪みは小田原大海嘯で打寄せた砂の捨場になった。
⑤土塁低層を川原石で葺き、そこを盛土で覆って土塁が構築されている。
調査見学会資料より(加筆)

⑥過去に浜町の外郭土塁で大量に石が出土→それと同じ状況と推察される。
⑦鉢形城の土塁の石積との共通点がある!?
⑧2本の土塁の間から石敷き通路と思われるところがでた。
⑨石敷がもっと続いていたら土塁間は堀は無く通路だった可能性もあり。
⑩8トレンチの平石列は側溝の蓋かもしれない(掘らないとわからない)。
⑩絵図ナドから土塁は二重であるのは確かでる。
1トレンチ

ココは石垣が2段になっていました。
手前に見える砂の層明治時代に起きた小田原大海嘯砂を処分したゴミ捨て穴のようです。
5、6トレンチ

城内(内側)を見る。撮影者後方が城外
6トレンチ

早川ものと思われる川原石を葺き、その上にを盛り上げた土塁であったようです。
これは、低部石で固め早川氾濫に備えた造りであったのであろうか? ←私見
7トレンチ

粘りのある土なので江戸時代水田跡であろうとのことです。
8トレンチ

石葺きとその上層の土の状態が分かる。
真中辺りの平たい石側溝蓋の可能性あり。最奥は石敷き
8トレンチの石敷き

土塁でなく、土塁に沿った道路? 或は虎口通路部分?今まで認識は二重土塁、今後の調査で変わるかも!!
外郭の堀だったはずの水路

調査地外ですが、
当時の堀幅が気になり聞いてみたところ、土塁から1間半(2.7m)くらいと仰っていました。
チョット狭くない?? と感じたが、早川蛇行氾濫ナドで前面は天然の要害(湿地帯)とも考えられるので不足は無いか!?
早川から対岸の小田原城方面

太閤目線! 見えてる範囲は小田原城ですが今は西湘バイパスばかりが目出ちます。早川口二重戸張は直線300mくらい先です。

今回、来てみると陶器片ナドの出土は無く、障子堀も発見されていません。無いのはいわゆる撹乱でしょうか?
ただし、土塁の一部に石が使用され通常の土塁形態と違っているので、この先の発掘範囲を広げたら何が出るか楽しみです!!
この他、4トレンチも大量の砂と水田跡が埋っていました。

終了後、ういらう屋さんに寄って、常盤木門2FのSAMURAIの館をみて家路につきました。

早川口二重戸張 地図(案内板のところ)
JR小田急箱根登山鉄道小田原」駅下車、西南西へ徒歩20分
箱根登山鉄道箱根板橋」駅下車、東南東へ徒歩10分
JR 東海道線「早川」駅下車、北北東へ徒歩10分

2017年12月5日火曜日

足利城 或は 両崖山城(あしかがじょう、りゅうがいさんじょう:栃木)

栃木県足利市本城1
織姫公園内


鑁阿寺足利学校そして関東平野が見下ろせます。
両崖山1km以上先です。
全体的に岩山の様相です

両崖山尾根は、足利の街西屏風のように守っています。
その南端にあたる織姫神社背後の織姫公園駐車場からの登城です。
痩せ尾根と岩場の連続

この長い尾根龍の背に例えて、龍崖両崖(両側が切立っている)と掛けているのであろうか? と、
勝手に想像だけど如何でしょう??
この辺り堀ナドが城っぽくなってきます

コチラの展望台がある平場と先の道はで仕切られ両サイドは竪堀の様相?
進んで展望台を振返る

の向こうには前の写真の展望台がある平場(曲輪)。
主要部に近くなってくる

先に進むとすぐに階段が見えてきます
階段を上ると1郭の下の曲輪

赤い鳥居の傍らに両崖城の標柱案内板あり。
上の写真に見える案内板

この縄張図のお蔭での様子がわかります。
1郭

もう一度階段を上がると1郭御嶽神社鎮座しています。あまり広くないが山城としては標準サイズか?
1郭の案内板


1郭の裏(北側)にある石垣の一部が残ると云われますが真実は如何に!
1郭下の郭

先ほどの赤い鳥居のところからの続く平場
1郭から北側の堀

端は竪堀となっているようです。
織姫公園近くの城址案内板

長尾氏は最終的に小田合戦では北条方だったため領地召し上げ廃城とされてしまいました。
織姫公園紅葉駐車場にある案内板

から山容を見て、尾根上1本道を登るだけ とナメていましたがピークが幾つもあって、
また、暑さの残る時期だったので思ったより登山に時間を費やし1郭以外の曲輪ナドに行く時間がなくなりました!?
目立った遺構は無いですが、次回があれば支尾根天狗山など幅広く廻りたいとおもいます。


両崖城 MAP (本丸)
もみじ駐車場 地図 10台ほど
JR 両毛線「足利」駅下車、北西に25分まで神社、更に登り45分
東武 伊勢崎線「足利市」駅下車、北北西に神社まで24分、更に登り45分
駐車場:あり 織姫公園紅葉駐車場
トイレ :あり(駐車場)

2017年11月22日水曜日

坂東の大学 足利学校(あしかががっこう:栃木)

栃木県足利市昌平町2338
足利学校石碑

足利學校(日本遺産)に来ました!
宣教師フランシスコ・ザビエルに「坂東の大学」と云わしめ、のちにルイス・フロイスも「坂東随一の大学」とヨーロッパにも伝えられて学校です。
入徳門

足利駅から県道67号線を歩いてくると、足利学校碑孔子像に出迎えられ、そこからを入ってくると、この入徳門です。
管理事務所脇の展示コーナー

西側入徳門孔子廟までは遺構で、
東半分(右側)はかつて小学校敷地で、方丈庭園土塁ナドは復元でしす。
字降松(かなふりまつ)

学生読めない字があるとき、に紙を結び付けておくと、仮名・注釈を書入れてくれる仕組みになっていました。
庫裡

建物内への入口はコチラ。中には展示物がある。
宥座の器

空で傾き、水を沢山入れるとひっくり返る。ほどほどが良いとゆう中庸の教えを具現化したもの。
左手はカメラ、右手に柄杓を同時操作でこぼれる瞬間を狙って! いわば教えにさからっているところ!
南庭園

ココは小学校校庭だったようです。
方丈から孔子廟と北庭園

方丈縁側から
東側の国道293号線から堀と土塁

コチラ、東側半分は復元です。
同じく国道から足利学校の北東角

この位置だと鑁阿寺も近い!
裏門

いまは閉めきりの裏門、当時の学生達が使用したそうです。

古印最中

道を隔てた太平記歴史館売店に、
足利学校」「野之國学」「金剛山」「鑁阿寺」の印判を型どった最中があり、その中に後北条氏の「虎の印判(禄壽応穏)」が有ったので思わず買い求めてしまいました。
足利で禄壽応穏とは?

足利学校蔵書書物国宝 文選(もんぜん)」があります。
これは、後北条氏が庠主(校長)に贈った書物で、21巻すべてに北条氏政署名虎の印判が押されております。 *念の為、わたくし後北条贔屓です!

それと、足利学校で「論語」を購入しました。知っているようで知らない論語を勉強してみます!!

香運堂本店H・P 古印最中、古印煎餅

足利学校 MAP (入場口)
太平記館駐車場 (無料)
たかうじ君広場駐車場(無料)
JR 両毛線「足利」駅下車、北西へ徒歩7分
東武 伊勢崎線「足利市」駅下車、東北東へ徒歩14分
駐車場:あり 
トイレ :あり

2017年11月19日日曜日

足利氏館と その跡地に建てられた鑁阿寺(あしかがしやかた、ばんなじ:栃木)

栃木県足利市家富町2220
■足利氏館
足利氏館跡

すこし前の訪問になります、足利氏館跡(鑁阿寺)の紹介です。
太鼓橋から

右手に足利学校が見えますが学校南側にあるので近くて遠いですね。
山門脇、館の案内板

案内板は「足利氏宅跡(平安時代)」となっております。
東角の辺りから太鼓橋

完全な矩形ではないですが教科書で見るような方形館です。
土塁内側

周囲にめぐる土塁館跡であることを感じさせてくれます。
ただ、土塁存在当時からそのままなのか? 気になるところです。

■鑁阿寺(ばんなじ)
案内板

建久7年(1196)に居館内持仏堂を建てたのが初め、後に鑁阿寺としました。


本堂(国宝)

本堂尊氏の父貞氏再建したもの。

山門部分(楼門)

この山門永禄7年(1564)に13代将軍 足利義輝再建
木組みがズレてますが、この柔軟さで耐震性抜群ですね!
東門

創建当初から在り、修理はされているが鎌倉時代武家造りの特徴が出ている四脚門
西門、経堂

西門は、東門と同様に寺の創建当初から在るそうです。
経堂建久7年(1196)に建てられています。
多宝塔

多宝塔元禄時代再建

鐘楼

鐘楼再建年代不明であるが鎌倉時代様式だそうです。

鑁阿とは何だろう? と気になったので意味を調べてみると、
 「(バン)」=金剛界大日如来
 「(ア)」=怠蔵界大日如来

怠蔵界の大日如来像内に足利家持仏金剛界の大日如来像を納めたもので、大日如来x2で鑁阿とされたようです。
足利尊氏公像と案内板

山門手前50m参道脇にあり
美味しい水も汲めます!


足利氏館 MAP(鑁阿寺)
たかうじ君広場駐車場 MAP
太平記館駐車場 MAP
JR 両毛線「足利」駅下車、北西へ徒歩10分
東武 伊勢崎線足利市」駅下車、北北東へ徒歩13分
駐車場:たかうじ君広場駐車場or太平記館駐車場(無料)
トイレ :あり