東京都江東区青海
船の科学館駅前から東京国際交流館
お台場の東京国際交流館で上野三碑が「ユネスコ 世界記憶」登録記念(2017/10/24)で群馬と東京の2ヶ所のシンポジウム開催のうち東京の回です。
会場入口までポスター!
海外からは韓国から朱甫暾氏、盧重國氏、中国から拜根興氏。各国の教授を招いてのシンポなので他国との関係ナドを知るチャンス! と申込みました! それぞれ通訳付き講演。
*金石文は金属や石に文字が刻まれた銘文。
シンポジウムの資料(全110ページ)
高句麗で多く造られ5世紀の好太王碑ナド巨大な碑も建てられている、それが新羅に伝わると中国の様式も加わり6世紀に最も盛んになり7世紀後半に新羅では姿を消す。(当然、百済や任那にあります)
上野三碑は7世紀後半から8世紀初頭に造られ、その後日本の他の地方でも造られなっていきます。
韓国の盧氏、朱氏ともに渡来した新羅の石碑文化と在地の融合で出来たと考えられるとしている。
近年、韓国では10年に1度くらい金石碑が発見されているが破損状態で発見されるものが多い。それに対して日本の碑の総数は多くは無いが狭い範囲に三碑が良い状態で残っているのは特筆すべきである。
一方、中国の日本金石研究に関して、日本に来た朝鮮通信使が拓本を持帰り、それを清へ朝貢した時に携えて行った。
それを元に清で日本の金石研究が為された。現在では中国での日本の金石研究の重要な資料となっている。
遠く、ベトナムのハノイにも314年の漢文の金石碑があるので、それも含めて日本の金石の議論研究も必要となっていくであろう! とのことでした。
上野三碑
〇山上碑
三碑中で最古の天武天皇10年(681)。日本語の語順で読める。上野 放光寺の僧 長利が母の黒売刀自の墓に建てた碑。中国・朝鮮半島では権力者の墓に碑を建てることはあるがあるが、そうで無い女性の為に建てることは無い。
○多胡碑(漢文)
笠石を乗せた碑で、和銅4年(711)上野国に多胡郡が新設されたコトを記念して多胡郡衙の表門に置かれたと考えられています。
〇金井沢碑
神亀3年(726)に三家氏が建てる。コチラも男女6人の個人名が刻まれている。中国・朝鮮半島では権力者以外には碑に名を刻まないそうです。
上野と渡来人
上野国には韓が語源の甘楽(かんら)、他に韓科(からしな)の地名も当時あった。
朱氏によると多胡碑がある多胡郡を「胡とゆうのはしばしば文化的差異をみせる異邦人を指す単語である」ことから新羅人を中心にした郡であろう、との見解です。
また、群馬県渋川市で6世紀に起きた榛名の火砕流で埋もれた 甲(甲冑)を着た人物が発見され話題になりました。この人物は調査で渡来人であるとわかりました、とても興味深い結果ですね。
なんか文章にまとまりが無くて恐縮です。
上野の上毛野氏、朝廷により移住させられた蝦夷(俘囚)・・・製鉄ナドの鉱脈探しや開発で渡来人が朝廷の意向で入植したとも考えられるのしょうか?
すると、蝦夷は労働力として移住させられたのか??
調べても限界がありますが妄想が膨らみます!
*三碑は鞘堂の中にありガラス越し見学だったりしますが2018年3月9・10・11 日の3日間公開されます。
山上碑 地図
多胡碑 地図
金井沢碑 地図
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