現存天守もあり皆さんご存知ですから今更 案内するまでもないのですが、最近はお城活動ができてないので過去写真ですがあげておきます。
岡山自動車、賀陽I,Cを降り、国道484号線で峠を過ぎ駐車スペースて休憩すると、眼下には高梁の街、正面には松山城の天守と櫓がみえます。街から武家屋敷の風情が残る街路を過ぎズンズンと登ると、それほど広くはない駐車場にでます、そこが鞴峠(ふいご)です。
駐車場の反対側(写真左)には下太鼓丸もあります。
登り坂を行くと木々の先に中太鼓丸(上太鼓丸)の石垣が現れます。
中太鼓丸(上太鼓丸)、下太鼓丸には太鼓があり、連絡をとっていたと聞きます。
そこから少し登ると・・・渡櫓門となっていた大手が見えてきます。
門内には足軽番屋が建っていました。
ココから岩盤と石垣のの造形美がみられ現存天守と並び見所の一つとなっています。
大手を抜けると三の丸下をぐるりと塀沿いに進むと、いまはなき黒門がたちはだかります。
黒門を通ると道の両側に四の平櫓の小スペース、御膳棚、厩曲輪があり、次は二の丸 鉄門(二の櫓門)跡です。
鉄門跡から二の丸内に入ると進入すると天守が睨みをきかせてますね!
本丸を出て搦手、後曲輪、水の手曲輪の方に廻ります。
石垣下の犬走り状のところは二の丸から延びる帯曲輪。
大松山へ行くには、水の手曲輪の水の手門跡を通過します。
写真左の物置小屋らしきものは、かつて建っていた番屋風なのでしょうか??
搦手門は埋門形式のようです。
搦手曲輪とゆうにはあまりに狭小な曲輪です!
写真は鞴峠(ふいご) 駐車場にある案内板。
築城は鎌倉時代まで遡り、はじめ大松山に、その後に現在の本丸がある小松山まで拡張されます。そして戦国に突入します。
備中で戦国大名化を目指す三村氏は、はじめ毛利氏と組みますが、三村氏と敵対する宇喜多直家と毛利輝元が結んだため勢力伸長中の織田信長と同盟します、しかし毛利勢力圏に近く、両川(吉川、小早川)に支えられる毛利軍団に単独で対抗する形になります。
支城群を各個撃破され、最後には松山城も落ち、毛利氏所有となります。
関ヶ原後に小堀父子(子の政一は遠州流庭園で有名)が代官として入城。その後は城主を替えてゆき維新までの城主は板倉勝静でした。
不屈の闘将 山中鹿之介終焉の地であり、現存天守と石垣群は北関東の諸将を翻弄した水谷蟠龍斎(ばんりゅうさい)の子孫が立ち上げ、その水谷氏改易に際して大石内蔵助が開城の受取人となって訪れました。
そして、わたくしが尊敬する山田方谷の出身地であり、その方谷の元で長岡藩の河合継之介もこの地に学び、最後の筆頭老中となった板倉勝静ナドナド!
わたくしにとってたいへん興味深い地であります。
高梁市郷土資料館(備中松山城の模型あり)
松連寺、薬師院 MAP
山中鹿之助墓所 地図 (落合橋西信号から西南西に徒歩5分ローソン近く)
過去Blog:
三大山城の一つ 高取城 2011/7/30
高梁観光ガイド(シャトルバス/タクシー)
備中松山城 MAP (山上駐車場のところ)
JR伯備線「備中高梁」駅下車、北北東へ徒歩1時間 鞴峠駐車場まで。
駐車場:あり(雲海シーズンは不明?)
トイレ:あり。 鞴峠P、御膳棚にあり。
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