2014年7月26日土曜日

中野長者屋敷 (なかのちょうじゃやしき:東京)

東京都中野区本町2-26-6
 応永年間(1394-1427)に鈴木九郎とゆう土豪がこの辺りに住みつき、馬を育て財を成しました。 地元の人々にも慕われたのでしょう、よって 中野長者と呼ばれるようになったようです。

 鈴木九郎は家族共々幸せに暮らしていましたが突然の不幸が襲い、愛娘の小笹が病気で亡くなってしまいます、九郎は失望し僧侶となり自宅をお寺に建て替えたのがこの成願寺です。
中野長者遺跡の碑
ココは一般に城館として認識されていますが、の縁起では、いわゆる有徳人の屋敷跡です。これは土豪として城砦を持っていた土豪が大儲けをしたのか? はたまた城砦の跡地に鈴木九郎さんが住み着いたのかはなんとも言えません。
蓮池藩 鍋島家墓所案内板
佐賀藩 鍋島家の3支藩小城藩蓮池藩鹿島藩で、この内5万2千石蓮池藩墓所があります。
 鍋島地蔵
圓通閣
江戸中期の書物にも記載があり、観音さまに願をかけた鈴木九郎繋がりで、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34箇所を併せて100観音にお参りしたことになる百観音堂。







中野長者屋敷 地図
東京メトロ「中野坂上」駅下車。1番出口から山手通りを南へ徒歩350m
京王バス 成願寺前に「成願寺」バス停もあります。

近くには、北北西に中野城山、あしを延ばして沼袋陣屋(江古田原の戦い)。

2014年7月20日日曜日

徒然草 と 長州藩 下屋敷 (ちょうしゅうはんしもやしき:東京)

東京都港区赤坂9-7-9 檜町公園のところ
サントリー美術館で 「 徒然草美術で楽しむ古典文学~ 」を開催しています。
わたくしもBlogタイトルに 「 徒然 」 の名を冠しているいるので行くべし!
とゆうことで鑑賞して参りました!!

徒然草

吉田兼好は後の名で本来は卜部兼好(うらべかねよし)です。吉田神社神職で、後二条天皇近くに仕えますが、30才ほどでで出家し第一線から身をひいてしまったようです。
ただ、
足利尊氏直義ナド武士とも交流があったようで完全な世捨て人になったわけではないようです。
太平記に「兼好と云いける能書の隠世者を呼び・・・」と、あるように高師直のラブレターの代筆者としても有名!!
兼好法師(嫡流でない)と同じく吉田(卜部)出身の吉田兼見は、吉田神社神職公卿であり、織田信長とも親交がありますが、
この2名は朝廷武家をとりもつ似たような立場にあったのか?どうでしょう??

さて、美術館の展示は・・・

絵巻屏風徒然草写本中心であります。
細川幽斎(藤考)写本幽斎本本阿弥光悦の物も展示されております。
基本的に文章展示が中心なので 達筆な字は判読不能なので、読めるとこだけ拾い読み(恥)して僅かながらでも徒然草の一端に触れて参りました。

 いまは崩し文字ナド今更ながらに勉強しようかとおもっている次第です。


長州(萩藩)藩邸
 前々回Blogの今井城海舟邸のところで触れましが、
東京ミッドタウンの前は防衛庁アメリカ軍宿舎軍の施設、その前は 長州藩(萩藩)の下屋敷でした。
その雰囲気を残すよう「東京ミッドタウンプロジェクトとして港区立 檜町公園(日本庭園部分)を含むかたちで構成されています。

藩邸跡から出てきた石組み溝石材擁壁石として使用され、敷地の樹木140本も移植されています。
藩邸絵図。

当時は藩邸の植生はヒノキが多いため檜御殿とも謂われ、藩主の滞在も多かったようです。
開発藩邸は掘り返されてしまいましたが、オフィスビルマンションが立ち並ぶ無機質な空間であるよりは、かつての毛利藩邸であった痕跡が残っているのでよしとしましょう。

また、毛利氏との関係で、の代表的な樹木である「夏みかん」「椿」が萩市より贈られ檜町公園に植樹されています。





サントリー美術館 H.P 徒然草 ~美術で楽しむ古典~
MIDTOWN meets GODZILLA
過去Blog:赤坂の今井城と勝海舟邸 2014/6/19

長州藩下屋敷 地図



2014年7月11日金曜日

三大山城と謂われる 備中松山城 (びっちゅうまつやまじょう:岡山)

岡山県高梁市内山下1
最近は竹田城と並んで天空の城名所となっている備中松山城ですが、美濃岩村城 大和高取城と並ぶ日本3大山城てす!

現存天守もあり皆さんご存知ですから今更 案内するまでもないのですが、最近はお城活動ができてないので過去写真ですがあげておきます。
岡山自動車、賀陽I,Cを降り、国道484号線で峠を過ぎ駐車スペースて休憩すると、眼下には高梁の街、正面には松山城天守がみえます。
街から武家屋敷の風情が残る街路を過ぎズンズンと登ると、それほど広くはない駐車場にでます、そこが鞴峠(ふいご)です。
駐車場の反対側(写真左)には下太鼓丸もあります。
登り坂を行くと木々の先に中太鼓丸(上太鼓丸)の石垣が現れます。
中太鼓丸(上太鼓丸)、下太鼓丸には太鼓があり、連絡をとっていたと聞きます。
そこから少し登ると・・・

渡櫓門となっていた大手が見えてきます。
門内には足軽番屋が建っていました。
ココから岩盤石垣のの造形美がみられ現存天守と並び見所の一つとなっています。
大手を抜けると三の丸下をぐるりと沿いに進むと、いまはなき黒門がたちはだかります。
黒門を通ると道の両側に四の平櫓の小スペース、御膳棚厩曲輪があり、次は二の丸 鉄門(二の櫓門)跡です。
鉄門跡から二の丸内に入ると進入すると天守が睨みをきかせてますね!
天守から城主目線で!
本丸を出て搦手後曲輪水の手曲輪の方に廻ります。
石垣下の犬走り状のところは二の丸から延びる帯曲輪
天守の後方を守る二重櫓(現存)は内を通り抜けできる構造となっています。
大松山へ行くには、水の手曲輪水の手門跡を通過します。
写真左の物置小屋らしきものは、かつて建っていた番屋風なのでしょうか??
搦手門埋門形式のようです。
搦手曲輪とゆうにはあまりに狭小曲輪です!
写真は鞴峠(ふいご) 駐車場にある案内板

築城鎌倉時代まで遡り、はじめ大松山に、その後に現在の本丸がある小松山まで拡張されます。そして戦国に突入します。

備中戦国大名化を目指す三村氏は、はじめ毛利氏と組みますが、三村氏と敵対する宇喜多直家毛利輝元が結んだため勢力伸長中の織田信長同盟します、しかし毛利勢力圏に近く、両川(吉川、小早川)に支えられる毛利軍団単独で対抗する形になります。
支城群を各個撃破され、最後には松山城も落ち、毛利氏所有となります。
関ヶ原後に小堀父子(子の政一は遠州流庭園で有名)が代官として入城。その後は城主を替えてゆき維新までの城主板倉勝静でした。
不屈の闘将 山中鹿之介終焉の地であり、現存天守石垣群は北関東の諸将を翻弄した水谷蟠龍斎(ばんりゅうさい)の子孫が立ち上げ、その水谷改易に際して大石内蔵助開城受取人となって訪れました。
そして、わたくしが尊敬する山田方谷の出身地であり、その方谷の元で長岡藩河合継之介もこの地に学び、最後の筆頭老中となった板倉勝静ナドナド!
わたくしにとってたいへん興味深い地であります。


高梁市郷土資料館(備中松山城の模型あり)
松連寺、薬師院 MAP 
山中鹿之助墓所 地図 (落合橋西信号から西南西に徒歩5分ローソン近く)
過去Blog:
三大山城の一つ 高取城 2011/7/30

高梁観光ガイド(シャトルバス/タクシー)
備中松山城 MAP (山上駐車場のところ)
JR伯備線「備中高梁」駅下車、北北東へ徒歩1時間 鞴峠駐車場まで。
駐車場:あり(雲海シーズンは不明?)
トイレ:あり。 鞴峠P、御膳棚にあり。