*数年前の訪城写真・データですので現状と相違があるかもしれません、訪れる場合は確認をとってください。
城は西に馬淵川、北に白鳥川、東には猫淵川と三方を川に囲まれた台地上にあり、九戸正実の乱直後に蒲生氏郷の指導により築き直し福岡城と改名、南部氏の居城とします。
本丸には東北最古の石垣があり、本丸、二の丸ナドは上方の城造りといっていいと思います。
反面、石沢館や若狭館は独立的な郭となっており旧来の郭と思われているようです。
南部氏は居城を盛岡城に移すので、そのときに福岡城(九戸城)は廃城となったようです。
毎度のことですが、
早朝だったので犬の散歩をしている方に挨拶をすると、遠方からで、しかも仕事前のブレザー姿の自分をみて物好きがいるもんだと変に関心されたようでした。
城址は若狭館が畑地(当時)で周囲は木が生えており見通しが効かず状態が分かり辛かった以外は全体的に歩きやすいです、
写真1枚目の角を入ると写真2枚目にポストがあるので、その中にあるパンフレットの地図をみながら廻ると楽にまわれます。
本丸、二の丸、石沢館は樹木も少なく広い公園のようになっていて見学しやすく、若狭館は畑地のままで周囲は木立があり全体像は分かり辛かったです(当時)。
松の丸は墓地や神社ナドになっていますが、堀や土塁の一部が残っています。
~~九戸政実の乱(天正19年)~~
豊臣秀吉は小田原合戦で北条家を潰して、奥州仕置きを為して 全国平定->戦国時代の終焉 と云われてます。
ところが翌年、奥州仕置に不満をもつ(改易された勢力など)が、奥州各地で一揆を起こします。
その中で九戸正実は主家南部家の相続問題と、南部信直が豊臣になびいたこと良しとせず反乱を起こします(九戸正実の乱)。
豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将とする二度目の奥州仕置軍を数手に分け進発させて、一揆を逐次平らげていきます。
最後に、終結した軍勢で九戸政実が籠もる九戸城を取り囲み降伏勧告の使者を送ると、九戸政実はそれを受け容れる。 ところが政実が城をでると・・・
豊臣方は和議を反故にし政実は処刑、開城したにも関わらず総攻撃を仕掛け撫で斬りにあい、あえなく落城してしまいました。
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豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将とする二度目の奥州仕置軍を数手に分け進発させて、一揆を逐次平らげていきます。
最後に、終結した軍勢で九戸政実が籠もる九戸城を取り囲み降伏勧告の使者を送ると、九戸政実はそれを受け容れる。 ところが政実が城をでると・・・
豊臣方は和議を反故にし政実は処刑、開城したにも関わらず総攻撃を仕掛け撫で斬りにあい、あえなく落城してしまいました。
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東北新幹線・いわて銀河鉄道「二戸」駅下車、東北東へ2.2km
駐車場:大手をはいったところに駐車できました。*要確認
トイレ:あり
近くには、南に一戸城。北北西に三戸城。北北東には八戸城、根城。
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