2011年12月18日日曜日

再び登城、川崎の寺尾城 part2(てらおじょう:神奈川)

神奈川県川崎市多摩区菅馬場2-30から寺尾台2丁目
以前にも「川崎の寺尾城」としてアップしました、今回のpart2は「まほろばの会」で里山保存活動をされており、城址保存を! と活動しておられる ちょめさん のお誘いです。

メンバーは、中世史に詳しい先生、市の文化財保護課の方、川崎市議の方々、まほろばの会の皆様。
 webブログ衆として「 ホテルマンしゅうちゃんの日記」主宰のしゅうちゃん(さん)と わたくしで現地調査にお邪魔してまいりました。

* 現地で話を聞き、歩いてみた纏め

 ■北側の馬場谷戸と南側のサム谷戸に挟まれ、東側は多摩川とその支流が流れ、その蛇行湿地中洲があり3方を守りやすい地形であった。 周囲には、沖河原ひうち島下島中の島 ナドの地名があり、河原中州が広く点在していた。

多摩川を挟み、東京都調布市上布田下布田。 川崎市にも布田とゆう地名があることから、多摩川の流路が変わったために分断されたものかと思います。
それにより、当時の多摩川多摩丘陵(寺尾城)寄りに流れていた可能性もある。<-要確認


地元ではがあったと伝わっている。「新編武蔵国風土記稿」の著者は地元の方に聞き取り調査はしたはず!

小沢城枡形山城のちょうど中間に位置し、見下ろせば高尾山から府中深大寺城付近の台地・調布への眺望が効き、台地堀切り分断してしまえば城郭として申し分ない地勢とみました。
堀底道のような遊歩道があり、谷側土塁状(堀残しか?)になっている。 前から気になっていたが、その土塁状の外側は1段平場(郭)に見える。
■今回、はじめて気がついたのだが、北西部分(ゲオの裏側)の中段には帯状平場があり腰郭とみられる。尚、この腰郭の北側(台地先端)は土砂崩れで立ち消えているようだ。
■現在残る城址最高所は鳥類の保護区域のためが酷く中には立ち入っておらず。
■残念ながら、先端付近台地上にある堀跡のような遺構ではなく土砂崩れ止排水溝だそうです。
しゅうちゃん(さん)が持参していた戦後の航空写真(山が削られる前)では、反対側(東)から現在残る竪堀の反対側に影が写っている。更に、その部分をGoogleEarthでみたところ植生に影があるので、今でも窪地になっているのではないだろうか? ここに想定ラインが見えてくるような・・・
公団造成で不明だが、移設復元された八角堂基壇のある公園脇は一段低く航空写真ナドでみると台地を切るのように見える。 <-あくまでも妄想!
諏訪氏系寺尾氏の同名のとして横浜市鶴見区埼玉県川越市ナドがありますが、横浜寺尾城町名鶴見区馬場である。う~ん! 「ばんば」=「ばば、城馬場を連想させる名だ。
因に、寺尾氏は早い時期から後北条家配下で重臣であったらしいです。


また時間をつくり、図書館へいき寺尾台開発発掘調査報告書を探してきます。
併せて、サム谷戸側の中腹にも小郭あるいは棄て郭痕がないか? 城址から台地付け根間のどこかに堀切があったのか? ナドナド、和紙公図古図があれば確認したいところです。
 ただサム谷戸は山際の道路直線に入ってきているので削られてしまったかもしれません。
主要部と思われるところは造成で消滅、公団内の公園移築復元された平安初期お寺八角堂基壇すらも造成される前は10数m高い位置に存在していました。
 ココからは武蔵国府国分寺あたりのと同系のものが出土してます。とゆうことは大丸城遺跡から出た窯跡で焼かれたなのでしょうか?

お話を伺った古老のお宅には100年前に掘出した 至徳元年(1384年)の年号が刻まれた観音さまの板碑が祀られており、近所の玉林寺さんにも同時代の板碑がありました。
ここに室町時代の有力者が住いしていたのでは? と先生も仰っていました。板碑は城とは直接関係ありませんがたいへん勉強になりました。

 いま残る森も何度も開発されそうになったが「まほろばの会」の皆さんが守り通し現在に至っているとのこと。
この里山保護活動をされている会の皆さんは、マンション開発計画をも退け、大切にされていて地元の方々のこの土地に対する愛情が伝わってきます。
また、府中調布はもとより高尾山からスカイツリーまで一望できるので良きヒーリングポイントとなっています。
最後に、城ブログをやっているだけの素人わたくしに声掛けをしていただきまして お礼申し上げます。
調査に参加の皆さま お疲れ様でした、そしてありがとう御座いました。

ホテルマンしゅうちゃんの日記」ご一緒したしゅうちゃん(さん)のBlog

*わたしの過去ブログ2011.1218「川崎の寺尾城」はこちら
寺尾城 MAP
JR南武線「稲田堤」駅下車、南南東へ1.2km。 京王線「京王稲田堤」駅下車 南東へ1.4km
JR南武線「中の島」駅下車 南西へ1.7km
駐車場:なし
トイレ :なし

2011年12月11日日曜日

滝の城 part2 現地説明会 (たきのじょう:埼玉)

埼玉県所沢市城537 埼玉県指定史跡
前々回ブログも「滝の城」でした、第1次発掘調査現地説明会がありましたので参加してきました。


城公民館で受付を済ませ現地(二の郭)へ向うと、
樹木が伐採されるなどしてたいへん見易くなって、主郭二の郭間のの中にあったトイレも撤去されていました。
以前とはだいぶ景観が違っていたのに驚きです~  <-前々回の写真が通用しないではないかーい!



気をとり直して、現地説明会へ、
発掘物はカワラケ片、すり鉢片、板碑片 ナドナド。
あとは、時代は下って江戸時代以降の地中深くに素掘り横穴(倉庫か?)。




二の郭主郭三の郭と順に案内していただき、
最後に地元の保存会の方がにココも見てくださいとおっしゃるので集団でゾロゾロと移動すると・・・
主郭三の郭間にあるの下はきれいになっていて2段削平地がみえるようになっています。




出土物は少ないですが、前回訪城時にわからなかったことも教えてもらい有意義に過ごさせていただきました。

解散後、周囲を歩いてみると藪の中に小さな平場が幾つかみうけられました。
発掘調査は、これから6ヵ年続くそうで、今年社務所を除く二の郭2012年三の郭
わたくしも来年の現地説明会に出没するかも・・・ です。

*交通等は2つ下の滝の城ブログをみてください。

2011年12月8日木曜日

岡の城山 (おかのじょうやま:埼玉)

埼玉県朝霞市岡3-30  埼玉県選定重要遺跡
場所は朝霞市城山公園のところで、明確な城主はわかっていません。 先端部に黒目川が流れ、そのから西に向かって主郭二郭三郭その一段下にある帯郭?、今は破壊された四郭と並んでいます。
遊具のあるところは堀跡っぽく、かつて周囲は深田、などに囲まれていたのかとも思われますが、 現状は普通の公園といった様相です、古地図があれば確認してみたいところです。
ただ、主郭二郭の間の土塁物見台と、二郭・三郭間の堀の折れところはいい感じでの雰囲気が楽しめます。





*12/10滝の城へ行き、岡の城山にも立ち寄る予定のため修正の可能性あり。*12/16画像追加

岡の城山 地図
東武東上線「朝霞」駅 下車 バス
東上線「朝霞台」駅又はJR武蔵野線「北朝霞」駅下車 
駐車場:あり 岡の城山公園P
トイレ :あり

2011年11月20日日曜日

滝の城 (たきのじょう:埼玉)

埼玉県所沢市城537。 埼玉県指定史跡
関越所沢I.Cの南に直線で1.2km程のところにあり、東所沢病院あるいは滝の城址公園を目指せばいいでしょう。城内が落ちていたことから滝の城山と呼ばれ、比高25m。
 北条氏照持ち城であったようです。豊臣秀吉小田原合戦落城したものと思われています。
現在は城山神社滝の城址公園になり(一部私有地か?)、南には柳瀬川が流れ、かつては北側の県道近くまでがあり、そこが外郭ラインであったようです。
地元保存会の方が整備に尽力されていて保存状態もたいへん良く土の城が好きな方にはお勧め!
 今回アップした写真は数年前に撮ったものです。最近はナドも下刈り整備されて見易くなっている模様、また写真を撮ったら差換えします。
所沢市役所:1Fに城址模型あり。模型は「生涯学習推進センター3F」にある模様です2012/05/21




滝の城山 地図
JR武蔵野線東所沢」駅下車 バス:志木駅南口行 「」下車7分。徒歩:東北東へ1.8km。
西武所沢駅東口発、志木駅南口行きにて「」下車 南へすぐ
駐車場:あり(滝の城址公園)。社務所前はただいま発掘中で駐車不可
トイレ :あり
近くには、東に岡の城山。北北東に難波田城
*2011/12 /10に滝の城の発掘に伴う説明会が行われます、わたしは午前の回に申し込みをしました。 詳細は 「所沢市教育委員会 文化財保護課」へ。 http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/tokoronews/event/bunka/takinojyouato/index.html

*追記2012/4/8。 2012/5/20(日)に第一回 「滝の城まつり」 が開催されます。

2011年11月10日木曜日

沼田城 (ぬまたじょう:群馬)

群馬県沼田市西倉内町594
 沼田城主は、沼田氏->北条氏->上杉氏->北条氏->武田氏->武田氏から独立した真田氏->と、めまぐるしく城主はかわりました。
 1600年関ヶ原の戦いが起こり、城主 真田信之東軍に従い留守中であった沼田城に、西軍についた真田昌幸に会いたいとやってきたときに信之室が気をゆるし城内に入れていたら・・・
 そのまま父親の昌幸占拠し、前哨戦が別なかたちで展開されていたのでしょうか? 親子といえど東西両軍に分かれて命を懸けて戦うわけですから厳しい世界ですね
 現在の城址沼田公園となり、西櫓台石垣、天守台や土塁。ごく一部残された水堀復元鐘楼があり、真田氏統治時代には関東では唯一五層天守があがっていましたが江戸時代の城主真田信利改易、城は堀を埋めるなどして破却
天守台石垣が無く残存箇所の石垣が低いのは破城の結果のようです。
また、発掘調査金箔瓦も出土しています。

旧生方家住宅:公園内、二の丸跡に移築されている。中には沼田城天守模型があり。





JR沼田」駅下車、1.1km 徒歩15分。 又は、駅からバスで「沼田局前」下車 徒歩約5分。
駐車場:無料
トイレ :あり
近くには、北西に名胡桃城、さらに進むと猿ヶ京城。 南に津久田城、さらに南下で白井城。 南に、前橋城

2011年10月4日火曜日

ああ悲惨! 江戸城 大手門 (えどじょう:東京)修正10/18

東京都千代田区大手町
 昼休みに先の震災(2011/3/11)で被害があった大手門巽櫓すぐ北、桔梗濠崩落石垣を見て参りました。
表の内堀通り堀端から目にはいる姿が痛々しい。

高麗門は何事もなかったように建っていますが、櫓門は足場パイプが組まれ入退出は左右に制限されており中央は通れません。

門をくぐって裏へ廻ってゆくと押長押がボロッと落ちて無くなっている箇所もあり、けっこうな被害です。
たしか、大手櫓門第二次大戦焼失、戦後に再建されたはず、災難つづきの大手門ですね 


また、石垣の崩落はこれほどとはビックリ
樹木がそっくり消え建物が丸見え、3月の被害で10月現在でこの状態ですから修復までしばらく時間がかかりそうです。

江戸城がんばれ



*修正10/18: 検索かけてヒットしたページがことごとく「地震で石垣崩落!」だったので、根拠があってのことだろうと思い込み崩落と書きました。あとで調べたら工事中に見つかった石引道路遺構のところらしいです。
じっさい石垣の修復工事に見えていたのに、漆喰壁の剥落をみていたので鵜呑みにしました~
みませ

今回は携帯カメラ、写りがイマイチ! iPhone 4sほしいなぁ~
*2012/2月 大手門の修復がはじまりました。

2011年9月15日木曜日

船岡城 (ふなおかじょう:宮城)

宮城県柴田町大字船岡字舘山
前回の白石城からを仙台方面に4駅先にある船岡城。

いまは船岡城址公園となっています。
はじめ船岡城ときいてもピンとこなかったが、一国一城令が布かれても船岡要害として存続。
伊達騒動の当事者原田甲斐と分かり俄然登城する気になりました。大河ドラマにもなった「樅の木はのこった(山本周五郎)」の存在も大きいかな。


さて、船岡駅前に着いたのが夕方17:00過ぎ(このとき10月です)、慌てて船岡城へ!
城下を抜け山の麓から三の丸へ上ってゆくと脇に石垣ガっー! と思ったが後世の石垣っぽい? 現存なのかどうだろう??
  ってゆうか資料が少なすぎですね




 樅の木案内板はありますが、建物跡など城関係の立て案内板も乏しく一般の方にはただの公園にしか見えないことでしょう。
城址から眺めた感じでは、船岡城(舘山)と白石川の対岸には韮神山が迫り、仙台への進入を阻む構造かとおもいます。
堀切土塁曲輪っぽいとこをアッチコッチ見ている間に暗くなってきたので三の丸周辺で退散とあいなりました。
時間があれば「柴田町船岡城址公園スロープカー」で山頂の平和観音のところまで登って下りながら城址を見て歩きたかったな~ ざんねん
遺構は本丸二の丸付近のほうが良いらしい、三の丸にも土塁井戸あります。













船岡城 地図JR東北本線船岡」駅下車 1km 徒歩12分(三の丸)まで
駐車場:あり(船岡城址公園内駐車場orしばたの郷土館)
トイレ :要所にあり

近くには、南西に白石城。 東南東に亘理要害。