2024年8月21日水曜日

2度目の訪城 湯築城(ゆづきじょう:愛媛)

愛媛県松山市道後公園1
道後温泉駅前から湯築城

半年以上前になりますが、2023年末道後温泉に行ったので湯築城を少し歩いてきました。
湯築城西側の外堀

円弧を描いて延びる外堀に往時を想いを馳せます。
道後公園北口

道後温泉側から近い公園入口
石造り湯釜

北口からすぐ天平勝宝年間(749-757)に造られ、1288年(正応1)に河野通直一遍上人に「南無阿弥陀佛」の文字を彫らせたと伝わっています。

この湯釜明治時代道後温泉本館ができるまで湯口として使われていた。

湯釜から少し登ったところから

前回訪城の時に主郭まで行っているのと 当日は時間制約があり北側周辺のみ歩きました。
道後温泉駅

この駅舎明治時代の外観再建されたもの。

たまたま 坊ちゃん電車点検されている係りの方がいらしたので聞いたところ、坊ちゃん電車人出不足ナドで運行停止中だが今後運行する予定は有るとのことです🚃

過去Blog2010/1/19 湯築城

湯築城 MAP 駐車場のところ
松山鉄道道後公園」駅下車、すぐ前が搦手門跡
松山鉄道道後温泉」駅下車、南東へ徒歩2分で北口
駐車場:搦手門南に有料P(近くに資料館、復元建物あり)
トイレ:要所にあり

近くには、西に伊予松山城岩子山城がある。

2024年8月20日火曜日

三好氏の本拠地 勝瑞城・勝瑞城館(しょうずいじょう:徳島)

■勝瑞城
徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地179(見性寺) 
コンビニから勝瑞城跡公園(見性寺)

前方道路端が見えますが、撮影者が立っている(コンビニ)辺りにもがあったようです。

案内板には鎌倉時代安土桃山時代まで阿波讃岐淡路政治の中心地であったと書かれています。
遺跡勝瑞城館勝瑞城との2箇所に分かれており、戦乱の世になると本丸と云われる勝瑞城築造されたと考えられています。
道路を渡ったところ

周囲より微高地方形に近い本丸と云われるの周囲の堀が7〜8割ほど残残存しております。
堀幅道路開削ナドで狭くなっているように感じます。
県道14豪線沿いの案内板

勝瑞城部分は本丸としている資料がありますが、長宗我部氏の圧迫により急造された詰めの城との見解もあります。
案内板拡大

吉野川湿地
吉野川の流れは現在と違い、支流が多数分流川と湿地帯に囲まれた要害を形成していたようです。
案内板の図拡大

勝瑞城部分はお寺になったためか土塁がよく残されています。
東側の堀

この部分、写真手前からお寺入口にかけて埋められています。
北側の堀

側、西側は道路で狭くなっているようですが、コチラは耕作地のため城の雰囲気がよく残っています。
勝瑞義家の碑

この地には平安時代勝瑞氏が住まいしていました。
北側の堀に架かる橋

虎口であったようです。江戸時代の見性寺絵図にはがみえます(県道側のお寺正面は埋め立てられた模様)
内部から北西の角土塁

上の写真の虎口近くの北西角。コチラは土塁で守られています。
城跡案内碑

応仁の乱東軍の後方拠点となったと書かれています。十河存保が守る勝瑞城長宗我部元親が押寄せ、存保中富川の戦いに破れ讃岐に退去勝瑞城の命運が尽きたと書かれています。
三好家4代の墓所

見性寺三好家の菩提寺で、城の西方にあったが江戸時代にこの地に移転してきました。
三好之長元長義賢長治の墓所。



JR高徳線「勝瑞」駅下車、北西に徒歩7分
駐車場:参拝者用あり
トイレ:未確認



■勝瑞城館
徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地2-67-1 (勝瑞城館跡展示室)
勝瑞城館跡全景

勝瑞城館細川氏、その後は重臣三好氏が本拠地とし、
初めに勝瑞居館部分(枯山水庭園ナドがある)が築かれた。
案内板内の図

勝瑞城館勝瑞城(見性寺)がある信号の南西です。
城館内駐車場がある。
堀跡展示

コンクリートの溝の中の展示です。後ろに見える褐色部分堀の地表展示(復元)も架けられています。
堀の立体表示

上の写真の中を覗くと復元堀になっています。
堀跡(着色加工

勝瑞城部分と違い城館部のはほとんど土塁を伴わないそうです。
礎石建物(復元)

発掘調査に基づき礎石建物復元されています。
枯山水跡

礎石建物から眺められる位置に枯山水が存在しました。
礎石建物跡から全景

枯山水跡と別に、写真に見える入口と展示室の間に庭園(池泉式か?)がありました。
史跡 勝瑞城館跡展示室

この階段を上がると2階が展示室です(無料)。

展示室2Fから

奥のマンション手前にと更に手前が館跡で、鳥瞰図パネルの陰になる辺りが庭園池跡と思われます。
展示パネル 左側

発掘物展示棚テーマは、
・守護所勝瑞の成立
・守護所勝瑞の発展
・三好氏による勝瑞城下町の整備
・細川氏・三好氏の生活文化

展示の棚には陶器茶道具ナドが展示されています。
同パネル右側

御城印は少し離れたアポロステーション 勝瑞SS 武田石油さんに置いてあるそうです。 ※城館近くのENEOSでは無い!

また、初期の細川氏守護所アポロステーション勝瑞SSの北方です。

勝瑞城は昨2023年末に訪れました。冬場の写真ですが悪しからず。



JR高徳線「勝瑞」駅下車、北西に徒歩11分
駐車場:あり
トイレ:あり

近くには、北西に伝・細川氏守護所。南南東に轟城。南西に住吉城。北北西に川崎城

2024年2月27日火曜日

サントリー美術館、茶人大名 織田有楽斎(さんとりーびじゅつかん:東京)

東京都港区赤坂9−7−4  東京ミッドタウンガレリア3F
サントリー美術館エントランス

現在開催中の400年遠忌記念特別展示大名茶人 織田有楽斎 」を観てきました。

織田信長の弟である織田長益有楽斎と名乗り、その江戸屋敷跡は東京千代田区有楽町にあり 現在ではでもその名が残されています。
有楽斎一筆箋を購入

展示ブース
第1章 織田長益の活躍と逸話 ー逃げた男と呼んだのは誰か
第2章 織田有楽斎の交友関係
第3章 数奇者としての有楽斎
第4章 正伝永源院の寺宝
第5章 織田有楽斎と正伝永源院 ーいま、そしてこれからー

陽明文庫 所蔵信長公記 巻14、15(原本 太田牛一)」があり、その他茶器大名茶人ナドとやりとりをした書状茶器ナド戦国好きにはたまりません。
ゆっくりと書状をみてきましたが崩字がシッカリ読めないのが残念!
もっと勉強します!!


*会期は2024/3/24迄
展示は撮影禁止🚫なので写真は入口だけ!!

蛇足。
ココ東京ミッドタウンの辺りは萩の毛利家 下屋敷跡です。

過去Blog

都営地下鉄東京メトロ六本木」駅下車、北へ徒歩3分
駐車場:あり(有料)
トイレ:あり

近くには、東北東に今井城。北東に勝海舟邸跡。南に長府藩毛利家下屋敷跡。

2024年1月11日木曜日

常陸国分寺、国分尼寺跡(こくぶんじ、こくぶにじ:茨城)

■常陸国分寺
茨城県石岡市府中5-1-5
中門跡

聖武天皇が全国68ヵ国に発願の国分寺と。今でも同じ場所に営まれています。
写真の手前のところは参拝者用駐車場です。
現在の国分寺山門と本堂

奥に見える本堂と書院に重なるところに鐘楼が建っていました。
金堂跡

金堂跡と薬師堂は一部カブっています。これはお堂の位置を踏襲したのでしょうか??
金堂の礎石のようです

いくつかある礎石発掘したものを地表展示しているのでしょう⁉︎
金堂跡碑

金堂の物証は碑と礎石のみです。
講堂跡

ココも礎石が点在しています。
七重塔心礎

はこの場所ではなく回廊の西方に離れて建っていたと思われている。
都々一坊扇歌堂

「どどいつ」の起源の都々一坊の扇歌道。
七・七・七・五 の節回しの都々逸は昭和の時代にTV演芸で漫才・落語ナドと共に良く流れていました。
国分寺パネル(ふるさと歴史館)

常陸国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」と云うそうです。
常陸国分寺模型(ふるさと歴史館)

この模型を見てから現地へ向かいました。
国分寺・国分尼寺出土品(ふるさと歴史館)
いしおかイベント広場

自分はココに駐車して歩いていきましたが国分寺前にも参拝者用駐車場あります。

イベント広場の案内板

JR常磐線「石岡」駅下車、北西に徒歩11分
駐車場:参拝者用あり
トイレ:あり




■常陸国分尼寺
茨城県石岡市若松3-1
常陸国分尼寺入口

小学校の北辺。この中にクルマを止めさせていただきました。
常陸国分尼寺石碑

常陸国分尼寺は正式には「法華減罪之寺」と云います。
国分尼寺全景

礎石基壇が保存されています。瓦など出土物ふるさと歴史館に展示されている。
案内板

この国分尼寺佐竹氏が大掾氏の府中城を攻めた際に焼失しました。
案内板より

国分寺と違い塔は無かった⁉︎ようです。
回廊跡

植込み回廊幅の展示のようです。
金堂跡

土壇金堂の位置が分かります。
金堂跡から講堂跡

金堂の北にある講堂跡。
北方建物跡

さらに講堂の背後にある北方建物と呼ばれるところ
これらは食堂とか経蔵ナドであろうか?


JR常磐線「石岡」駅下車、北西に徒歩26分
駐車場:国分尼寺1枚目の写真のところに停めました。
トイレ:あるようですが使用できるか未確認。