由木城は、大石氏の居館でしたが、大石源佐衛門尉定久は滝山城に移るため同地に金峰山 永林寺を建立し開基となりました。
立派な総門と三門には三ッ鱗の家紋を見え、江戸時代の寺は十万石の格式を持っていたそうです。
尚、開山一種長純和尚(大石定久の叔父)450回忌となってますので滝山城へ移転してから450年+α経ちます。
また、大石定久公のお墓もあります。
お堂を過ぎると、すぐ大石定久公のお墓があり、さらに進むと墓地の一段上に由木城の看板が掲げられております。そこには城址碑と大石定久公の像があります。
親切にも外周の土塁尾根下に遊歩道のように道がついていて見学は自由にできるようです。
この外周の東側(外側の住宅地)にも行ってみましたが、寺内と同じような高さで尾根がまわっていましたから土塁とみて間違いないとおもいます。
わたしが十代であった頃、自転車や単車でツーリングで野猿街道を抜けるときに由木城が見え隠れしていたのですが、
中学生のころ夢中だった城への興味も薄れはじめていたので、いつも素通りしてました~ ←あ~ もったいない!
立派な総門と三門には三ッ鱗の家紋を見え、江戸時代の寺は十万石の格式を持っていたそうです。
尚、開山一種長純和尚(大石定久の叔父)450回忌となってますので滝山城へ移転してから450年+α経ちます。
また、大石定久公のお墓もあります。
立地は寺の裏山から土塁状尾根で馬蹄形に抱かれた内部を平地造成にしているようで(周囲は掘り残し土塁?で残土で埋立てか?)、その中にお堂と墓地があります。
きっと、この辺りが館跡なのでしょう。
お寺でどこまで改変されているのか 分かりませんが、パッっと見そんな感じです。お堂を過ぎると、すぐ大石定久公のお墓があり、さらに進むと墓地の一段上に由木城の看板が掲げられております。そこには城址碑と大石定久公の像があります。
親切にも外周の土塁尾根下に遊歩道のように道がついていて見学は自由にできるようです。
この外周の東側(外側の住宅地)にも行ってみましたが、寺内と同じような高さで尾根がまわっていましたから土塁とみて間違いないとおもいます。
わたしが十代であった頃、自転車や単車でツーリングで野猿街道を抜けるときに由木城が見え隠れしていたのですが、
中学生のころ夢中だった城への興味も薄れはじめていたので、いつも素通りしてました~ ←あ~ もったいない!
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