山梨県都留市上谷1
勝山城から下りてきました。
谷村城の城域は、谷村一小(本丸)のところから、北の高尾神社(三の丸)あたりまで。 桂川の対岸にある詰の城の勝山城とは橋で結ばれていた。
郡内の領主小山田氏は武田氏と共に滅亡。
その後、幾名かの城主を経て、拡張されたのだと思います。
この地を最後に治めていた旗本秋元氏が転封し郡内が幕府の天領になると城址は耕作地へと変わっていき、現在に残る遺構は何もなく 小学校内に城址石碑だけがが建っています。
歩いた感じではミュージアム都留~歴史文化公園~市役所~小学校の前を流れる家中川が堀の名残っぽくみえるのと、それに沿った城郭風石垣が城址の雰囲気を醸しています。
ミュージアム都留HP
谷村城 地図 (城址碑のところ)
富士急行 「谷村」駅下車 北へ徒歩4分
駐車場:市役所利用
トイレ :市役所利用
近くには、東 間近に谷村陣屋。 北北西に小山田氏の中津森館。 南東に小山田氏別荘。 南西に古渡城山烽火台。 北北東には岩殿山城。
城郭ページ! 関東の後北条系の城メインで、 範囲は古代山城から近世城郭まで! その他、遺跡、寺院、伝統芸能、ナドも・・・ *過去Blogは「県名」「石垣」「古墳」ナド ラベルのキーワードで検索してください。
2011年8月29日月曜日
2011年8月23日火曜日
勝山城 (かつやまじょう:山梨)
山梨県都留市川棚 (城山、標高571m)
幾度となく前を通りすぎている勝山城ですが、ようやく盆休みの釣り帰りに寄ってきました。
まずは、ミュージアム都留で資料集めからはじめ、そこに駐車させていただき徒歩で登城のつもりだったので、職員の方に聞いてみると、「クルマは置いてっても大丈夫ですが、城山に駐車場もありますよ!」 と、親切にも案内地図までコピーしていただいたので迷わず駐車場まで辿り着けました。 感謝!
行くまでは小城と思っていたので勝山・谷村両城を併せると予想以上の城でありました~!
思えば、徳川家康公を関東に封じ込める(監視する)ための城の一つとも思えるのでそれなりの規模が必要だったのしょう。
土塁などはあまりみられませんが、本丸には東照宮が建っており、南側と北側2箇所に石垣が残ります。
大月から富士吉田に抜ける国道129号線を走ってくるとクランク状に道が折れますが、これが城下町の名残のようです。
この城は、平素は谷村城(館から派生?)、事が起きれば桂川対岸の勝山城に篭るとゆう2城1対で機能しており、一説では小山田氏時代から存在したともいわれ、後北条氏、徳川家臣の鳥居氏を経て豊臣政権下の浅野氏のときにミュージアムの模型のような縄張になったものと思われます。
江戸期は秋元氏が陣屋を営み、宇治から御茶壷道中が行われ、勝山城の御茶壷蔵に納められ熟成させて江戸に運びました。
ミュージアム都留:城址模型あり、発掘調査報告書(¥2400)は近隣城館・狼煙台の資料も載っています。
勝山城 地図富士急行「谷村」駅下車 桂川を渡り600m 徒歩約8分(駐車場まで)。 「都留市」駅下車して北側からも登れるようです。
駐車場:あり、3~4台ほど。
トイレ :駐車場に付帯
近くには、南東に小山田氏別荘。南西に古渡城山烽火台。 北北西に小山田氏の中津森館。北北東には岩殿山城。
幾度となく前を通りすぎている勝山城ですが、ようやく盆休みの釣り帰りに寄ってきました。
まずは、ミュージアム都留で資料集めからはじめ、そこに駐車させていただき徒歩で登城のつもりだったので、職員の方に聞いてみると、「クルマは置いてっても大丈夫ですが、城山に駐車場もありますよ!」 と、親切にも案内地図までコピーしていただいたので迷わず駐車場まで辿り着けました。 感謝!
行くまでは小城と思っていたので勝山・谷村両城を併せると予想以上の城でありました~!
思えば、徳川家康公を関東に封じ込める(監視する)ための城の一つとも思えるのでそれなりの規模が必要だったのしょう。
土塁などはあまりみられませんが、本丸には東照宮が建っており、南側と北側2箇所に石垣が残ります。
大月から富士吉田に抜ける国道129号線を走ってくるとクランク状に道が折れますが、これが城下町の名残のようです。
この城は、平素は谷村城(館から派生?)、事が起きれば桂川対岸の勝山城に篭るとゆう2城1対で機能しており、一説では小山田氏時代から存在したともいわれ、後北条氏、徳川家臣の鳥居氏を経て豊臣政権下の浅野氏のときにミュージアムの模型のような縄張になったものと思われます。
江戸期は秋元氏が陣屋を営み、宇治から御茶壷道中が行われ、勝山城の御茶壷蔵に納められ熟成させて江戸に運びました。
ミュージアム都留:城址模型あり、発掘調査報告書(¥2400)は近隣城館・狼煙台の資料も載っています。
勝山城 地図富士急行「谷村」駅下車 桂川を渡り600m 徒歩約8分(駐車場まで)。 「都留市」駅下車して北側からも登れるようです。
駐車場:あり、3~4台ほど。
トイレ :駐車場に付帯
近くには、南東に小山田氏別荘。南西に古渡城山烽火台。 北北西に小山田氏の中津森館。北北東には岩殿山城。
2011年8月15日月曜日
飛鳥の石造物 (あすかのせきぞうぶつ:奈良)
奈良県明日香村
大和郡山城と高取城のところで転用石に触れたので自分なりに分かる範囲で調べてみました。
■ 猿石5体(飛鳥に男、女、法師、権現4体+高取城1体。 高取町観覚寺の光永寺にある1体は除外)は
現在は吉備姫王墓に置かれている。 明日香村平野の畑で顔が半分露出(今昔物語にある石の鬼形か?)した状態にあったものが江戸時代の元禄15年に欽明天皇陵近くで堀りだされたもの。
詳らかではありませんが高取城二の門前に鎮座している猿石はこのとき一緒に掘り出されとされています。
なので石垣転用石ではなく、国学が発達した元禄期に藩から大切に扱われ二の門前に置かれた(守り神としたものか?)。
いずれにしても石垣転用石ではなさそうである。
■他の気になる石
●酒船石: 矢穴を開けて割られているのに多くの部分が残っているのは何故?
●鬼の俎・鬼の雪隠: 俎と雪隠で石室を構成。
なぜか岡の上に底である俎だけが残る。矢穴が多数あいており割ろうをした形跡がある、何のために?
蓋である雪隠はひっくり返った状態で下方に転落して(させられて)いる。
●もう一つの鬼の俎: 鬼の俎・鬼の雪隠の近くに同じような石室があったが、こちらは明治になってから割られ、個人宅の庭石にされてしまった! 現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外にこの割られた石が展示されています。
一説では、双墓で転落している鬼の雪隠はこちらの割られた俎とセットであったらしいのです。
これまで私は、これらの石は城の転用石にされてしまったのかと思っていましたが、必ずしもそうとは限らないようです。
それと鬼の俎や石舞台古墳は石室の上に覆い土があったはずなんですが、どんな経緯で剥がされてしまったのでしょう、
はたして 飛鳥人があばいたのか?その後の人か?
謎は尽きません。
猿石 MAP (吉備姫王墓)
大和郡山城と高取城のところで転用石に触れたので自分なりに分かる範囲で調べてみました。
■ 猿石5体(飛鳥に男、女、法師、権現4体+高取城1体。 高取町観覚寺の光永寺にある1体は除外)は
現在は吉備姫王墓に置かれている。 明日香村平野の畑で顔が半分露出(今昔物語にある石の鬼形か?)した状態にあったものが江戸時代の元禄15年に欽明天皇陵近くで堀りだされたもの。
詳らかではありませんが高取城二の門前に鎮座している猿石はこのとき一緒に掘り出されとされています。
なので石垣転用石ではなく、国学が発達した元禄期に藩から大切に扱われ二の門前に置かれた(守り神としたものか?)。
いずれにしても石垣転用石ではなさそうである。
■他の気になる石
●酒船石: 矢穴を開けて割られているのに多くの部分が残っているのは何故?
●鬼の俎・鬼の雪隠: 俎と雪隠で石室を構成。
なぜか岡の上に底である俎だけが残る。矢穴が多数あいており割ろうをした形跡がある、何のために?
蓋である雪隠はひっくり返った状態で下方に転落して(させられて)いる。
●もう一つの鬼の俎: 鬼の俎・鬼の雪隠の近くに同じような石室があったが、こちらは明治になってから割られ、個人宅の庭石にされてしまった! 現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外にこの割られた石が展示されています。
一説では、双墓で転落している鬼の雪隠はこちらの割られた俎とセットであったらしいのです。
これまで私は、これらの石は城の転用石にされてしまったのかと思っていましたが、必ずしもそうとは限らないようです。
それと鬼の俎や石舞台古墳は石室の上に覆い土があったはずなんですが、どんな経緯で剥がされてしまったのでしょう、
はたして 飛鳥人があばいたのか?その後の人か?
謎は尽きません。
猿石 MAP (吉備姫王墓)
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