前回の松山城のからみで・・
北条氏綱vs扇ヶ谷上杉朝定の戦の中でで松山風流合戦があり、これは松山城へ退却する難波田弾正憲重(扇ヶ谷上杉)に、攻勢の山中主膳(北条)が歌で問答したものです。
山中主膳 「 あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
など難波田の崩れ行くらん (なにか難波田の 浦崩れゆく、 とも) 」
勝手に解釈: 悪いはずはない、良かろうと思い戦ったのだろう? 何故、難波田(難波の浦)の兵(波)は引いていくのだ?
難波田弾正憲重 「 君(上杉朝定)おきて あだし心(移り気・浮気)を 我もたば
末の松山 波もこえなん 」
勝手に解釈: 我が主人を残し闘死したら、 最後の砦の松山城はあなた方の兵の波で呑まれてしまうじゃないですか~ いゃ、この弾正がそうはさせません!
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さて、
山中主膳のあしからじの元歌は・・・ 出展は今昔物語や能の演目など 何通りかありそれぞれにに内容が異なるようです。
貧困のためつれあいを離縁し難波の浦で葦を刈って生計をたてていた夫。 元妻は京で高貴な人の屋敷で乳母となり、裕福になり供を連れ難波の浦に前夫を探しにやってきました。
元夫に元妻の呼びかけ 「あしからじ よからんとてぞ 別れにし 何か難波の 浦は住み憂き」
「あしかあじ(葦刈らじ=悪しからじ) よかれと思いアナタと別れたのに 難波の浦の生活のどこが淋しいの?
」
夫の返歌 「君なくて あしかり(葦刈り=悪しかり)けると 思うにも いとど難波の 浦は住み憂き」
勝手に解釈: あなたが居なくなって、悪いことをしたと思うにつれ、難波の浦の生活は淋しさが増すのです。
さらに、
難波田弾正のきみおきて元歌は清原元輔で・・・ (多賀城市の末の松山=多賀城の枕言葉か?)
「君をおきて あだし心を わが待たば すゑの松山 波も越えなむ」
(あなたをさし置いて 私が浮気するようなことがあれば 末の松山は波が越えてしまうでしょう。
末の松山は、波がとどかない丘上にあるので、(浮気は)ありえないの意)
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蛇足ながら・・・
なぜ「すゑの松山なみ越さじ」なのか? と以前から気になっていたところ、
それは「 1000年前の貞観地震でも津波の被害をこうむってないのでは? 」 との説があるようです、 驚くことに 先の震災でも無事で、すゑの松山の脇を津波が流れていったそうです。
まさに 例えどおり 驚!
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元歌は、どちらも男女の仲を呼んだ歌ですが、好敵手とゆう言葉があるように逢った恋人に呼び掛けるように戦場でやりとりするとはっ!
文字通り風流合戦!!
わたくしも、火急のときにあっても この余裕を持ちたいと常々思っております。
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