2011年6月29日水曜日

河越氏館 (かわごえしやかた:埼玉)

埼玉県川越市上戸378 (川越氏館跡史跡公園のところ)国指定史跡
秩父氏を祖とする河越氏を構えたところです。 河越氏が衰微した後は、河越城(扇ヶ谷上杉氏)を攻略するため山内上杉氏古河公方3000騎が駐留できる上戸の陣をこの地に築きました。
現在残るゴルフ練習場沿いの土塁常楽寺北側の土塁は その上戸の陣として築かれたと思われています。
また、 山内上杉氏扇ヶ谷上杉氏が争っている間に台頭してきた後北条氏 川越城を攻略、河越氏館(上戸陣)を重臣の大道寺政繁(武蔵新編風土記)にしたようです。 尚、常楽寺には大道寺政繁宝篋院塔があります。

館の場所は、
河越氏館跡史跡公園常楽寺上戸小学校周辺・それと一部河川 になります。
松山城から到着したのが18:00過ぎ、土塁の写真を撮りながら歩きだし史跡公園に着くと・・・
開園時間は18:00まで! 仕方なくフェンス際から写真を撮り帰宅の途につきました。

この日は三ツ木城吉見百穴松山城(2度目)ー河越氏館の順でまわりましたが、台風で朝まで雨が残っており出足が遅れたので 青鳥城をスルーしてしまいました~
なんか、こんなパターンが多いような気が・・・・ 

川越氏館 地図東武 東上線霞ヶ関」駅下車 北東へ1km (常楽寺まで)
駐車場:川越氏館跡史跡公園前
トイレ :史跡公園、18:00まで

近くには、東に川越城。 南東に砂久保陣所難波田城。 北に松山城

2011年6月17日金曜日

勝手に解釈、松山風流合戦 (まつやまふうりゅうかっせん:埼玉)

前回の松山城のからみで・・
 北条氏綱vs扇ヶ谷上杉朝定の戦の中でで松山風流合戦があり、これは松山城へ退却する難波田弾正憲重(扇ヶ谷上杉)に、攻勢の山中主膳(北条)がで問答したものです。

山中主膳  「 あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
    など難波田の崩れ行くらん
 
 (なにか難波田の 浦崩れゆく、 とも) 
 勝手に解釈: 悪いはずはない、良かろうと思い戦ったのだろう? 何故、難波田(難波の浦)の兵(波)は引いていくのだ?

難波田弾正憲重
 「 (上杉朝定)おきて あだし心(移り気・浮気)を 我もたば
    末の松山 波もこえなん
 

 勝手に解釈: 我が主人を残し闘死したら、 最後の砦の松山城はあなた方の兵の波で呑まれてしまうじゃないですか~  いゃ、この弾正がそうはさせません!

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さて、
山中主膳あしからじの元歌は・・・ 出展は今昔物語や能の演目など 何通りかありそれぞれにに内容が異なるようです。

貧困のためつれあいを離縁し難波の浦で葦を刈って生計をたてていた夫。 元妻は京で高貴な人の屋敷で乳母となり、裕福になり供を連れ難波の浦に前夫を探しにやってきました。
元夫に元妻の呼びかけ 「あしからじ よからんとてぞ 別れにし 何か難波の 浦は住み憂き
 「あしかあじ(葦刈らじ=悪しからじ) よかれと思いアナタと別れたのに 難波の浦の生活のどこが淋しいの?

夫の返歌  「君なくて あしかり(葦刈り=悪しかり)けると 思うにも いとど難波の 浦は住み憂き
 勝手に解釈: あなたが居なくなって、悪いことをしたと思うにつれ、難波の浦の生活は淋しさが増すのです。

さらに、
難波田弾正きみおきて元歌は清原元輔で・・・ (多賀城市の末の松山=多賀城の枕言葉か?)
君をおきて あだし心を わが待たば すゑの松山 波も越えなむ
 (あなたをさし置いて 私が浮気するようなことがあれば 末の松山は波が越えてしまうでしょう。
 末の松山は、波がとどかない丘上にあるので、(浮気は)ありえないの意)

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蛇足ながら・・・
なぜ「すゑの松山なみ越さじ」なのか? と以前から気になっていたところ、
それは「 1000年前の貞観地震でも津波の被害をこうむってないのでは? 」 との説があるようです、 驚くことに 先の震災でも無事で、すゑの松山の脇を津波が流れていったそうです。
 まさに 例えどおり    驚!

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元歌は、どちらも男女の仲を呼んだ歌ですが、好敵手とゆう言葉があるように逢った恋人に呼び掛けるように戦場でやりとりするとはっ!
 文字通り風流合戦!!
わたくしも、火急のときにあっても この余裕を持ちたいと常々思っております。

2011年6月11日土曜日

武州 松山城(まつやまじょう:埼玉)

埼玉県吉見町北吉見、南吉見
前回書いた三ツ木城から13km、吉見百穴の南が松山城で、住所は東松山市ではなく、隣接した吉見町です。

はじめ登城路が分からず、岩屋観音の間から這い上がろうとしたが、台風の影響で竪堀が沢と化し断念!
取り敢えず、吉見百穴に行き城址地図を貰い、空堀跡ではないかと思える道路を登ったところが写真1枚目のところです。
 しかし、歩きはじめると三ツ木城にもあった「スズメ蜂に注意」の立看板がチラチラと目につきます。 しかも、台風直後で蒸し暑くスズメ蜂日和なんです ビクビクしながら先へ歩いてきました。
 北条氏康武田信玄援軍を得て上杉謙信方であった松山城攻めをしたりしてます。

ものの本によれば、北条vs上杉(謙信)の取り合いのもと、双方が補修拡張して複雑(北条流と上杉流築城術とゆうのかな?)な構成になったとあります。
いまの自分には、市野川の往時の流路とどこまでが城なのか全容がわかり難い。
市野川は城址南で突然直線に河川改修されてますが、蛇行が続き 辺り一面は湿地帯ではないか? 三郭の東側(外側)の家臣屋敷と思われる範囲がどこまでか?  百穴方面にも砦があっていいのかな? と素人ながら感じています。


因みに、南東側にあった大堀切は消滅してしまったようです。

松山城のおおよその様子がわかったので、周辺も含め散策したらまたアップします。



*行かれる方は帽子・長袖着用をお勧めします。

松山城 MAP

 東武 東上線東松山」駅下車 東へ2.0km。 バスで百穴入口バス停下車(所要6分170円)
駐車場:無料、百穴の文化財センター前
トイレ :吉見百穴(300円、年中無休)

近くには、西南西に青鳥城。 西北西に杉山城越畑城。 北西に山田城(森林公園内)。西に菅谷館。 川越城。 東南に三ツ木城

2011年6月1日水曜日

桶川の城山公園 三ツ木城 (みつぎじょう:埼玉)

埼玉県桶川市大字川田谷2839-11(公園事務所)
 

 場所は圏央道桶川北本ICから17号(上尾道路)を1km南下すると城山公園に着きますから、ヒジョウにわかりやすいです。

駐車場に着くと周囲は似たような風景でどの城址か分からず??
取り敢えず、の名残と思われる公園内のの方向に歩いていくと・・・
なんか土塁っぽい部分が見えてきて、そのまま回りこんでいくと二重土塁とおぼしきところを発見!
城郭さながら土塁の内側は私有地のようで容易に人を寄せつけません。オマケにがひどく、見せられるような写真がナカナカ撮れませんでした~
三角(曲輪)形状に土塁が残っているそうです。

桶川市歴史民族資料館(駐車場から):入館無料 9:00~16:30  休館:月・祝・年末年始・特別整理期間・月末
三ツ木城 MAP

JR高崎線「桶川」駅下車 西南西へ3.7km 
駐車場:無料
トイレ :あり

近くには、南西に川越城、川越氏館。 北西に松山城。 北北東に忍城。 北東に菖蒲城。