2010年10月16日土曜日

武田信玄vs北条氏康 三増峠の戦い (みませとうげのたたかい:神奈川)

神奈川県愛川町三増
 毎年、10月に行われている三増合戦まつりを思い出し書いてみました。(2010年は10/17開催)

時は永禄12年10月6日?か8日?(1569)武田信玄は上野国から関東に乱入

 甲州路から八王子へ侵入してきた山県軍と合流後に周辺を荒らしながら小田原まで進行。 小田原城攻めの体制をとり城下に放火。
だが兵站線などの問題から撤退、鎌倉へ進軍すると吹聴しながら厚木->津久井->甲州路方面へ進軍。
途中まで迅速に進むが、半原付近に関東の北条勢2万 (武蔵・相模・下総勢)が集結しているのを知りすばやく兵を引くとみせて布陣。
そこに北条勢が攻めかかり、はじめ北条有利に進めていたが、戦場から北へ離脱させた山県隊を迂回反転させ、北条方の横合いを突かせたので北条軍は総崩れとなり、敢え無く敗北となりました。

最近の説では、越相同盟に対し圧力をかけるための信玄のデモンストレーションであり徹底して戦う気は無かったと云われています。
北条氏康はそれを知ってか?知らずか? 小田原から追い討ちをかけるべく出陣した氏康氏政 父子の行動は迅速でなく、夕刻に戦場近くまで来てはみたものの、負け戦の報に接し そのまま小田原へ引き上げました。 

この三増峠では、氏照率いる北条軍が半原で戦闘体制を整えている間に、さっさと峠側に移動し有利な展開を決めました。徳川領内でも家康軍を追いまわしたり、敵地内を鮮やかに不気味に進退をしてしまう 信玄は恐るべしですね!

私見として、
この戦いは、北条氏康は三増山、武田信玄は見増坂と云っており、武田軍の撤退は三増峠志田峠まで三つの峠を分散して越えようとしているところを、勝機とみた北条軍撤退軍の最後尾に襲い掛かっているようなので、戦闘は麓近くの斜面で行われたとものではないかと感じております。 少なくとも旗立の松などは山深く戦闘できるようなところではありません。

三増峠古戦場 地図 古戦場碑のところ。前の道路は三増合戦みちです。
徒歩:バス 神奈川中央交通、中原上恵田中学校前の3バス停の辺り。三増バス停から戦場までは離れているので注意)駐車場:訪れたのが数年前なので不明(その頃は無かったような・・・)
大雑把ですが、東名厚木カントリークラブ(クラブ内に信玄旗立ての松あり)を目指しその山と南側の裾野に広がる原のあたりが古戦場です。

愛川町郷土資料館内愛川町郷土資料館 地図(宮ヶ瀬ダム近く、 県立あいかわ公園 内)
入場無料、但し駐車料金がかかります。


北東に浅利明神( 浅利右馬助信種墓地)。 西には、愛川中学校の西側に田代城、その対岸に細野城。 北7.5kmに津久井城。

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