東京都稲城市平尾。 神奈川県川崎市麻生区古沢、金程、千代ヶ丘、上麻生
小田急線新百合ヶ丘駅と東京よみうりカントリークラブの間が合戦場です。 * 多摩川原など諸説あり
扇ヶ谷上杉の深大寺城に北条の小沢城ときたら、次はやっぱり小沢原合戦でしょう! 上杉さんは北条氏の圧迫で相模を失い(某略により相模、糟屋で家宰太田道灌を謀殺したのが悔やまれるがあとの祭り、そして高輪原で氏綱に破れ同時に牒略により江戸城をも失い これでは権威も家臣も無くなってしまう!? っと考えたかどうか・・・そこで上杉朝興さんは起死回生の一戦に望みました。享禄3年(1530)に川越城から大軍をもよおし北条方の地を蹂躙しめはじめました。(江戸城、世田谷城、小沢城 辺りを攻めたらしい?) もちろん北条さんも黙ってはおりません、二代目当主氏綱は嫡男氏康を初陣にだし、且つ大将の重責を負わせ出陣させ乾坤一擲の勝負にでました。氏康の 乳母の子 志水小太郎(清水?)や合戦地に明るい万福寺(麻生区)の住人、中島隼人佐らを引き連れ合戦にのぞむ。 *注! ここからは個人的な想像 隠れ谷戸までは、合戦場といわれる金程1丁目から南に1km離れています、数にものをいわせて襲い掛かる上杉軍に対して退却とみせかけて谷戸に引き込み、長く伸びてしまった上杉軍をの横合いを伏兵でついたのではないか?オマケに狭い谷戸のため兵が多ければ多いほど混乱に陥ってしまったと読んでいるのですが、さらに小沢城からの出撃があれば挟撃の恐怖から総崩れ なんてコトも・・・上杉軍が小沢城を攻囲中に、その場から有利な合戦地に誘い出し、秘策を用い叩く! って桶狭間や長篠の戦いみたいでワクワクしますね~! <-妄想
小田急線新百合ヶ丘駅と東京よみうりカントリークラブの間が合戦場です。 * 多摩川原など諸説あり
扇ヶ谷上杉の深大寺城に北条の小沢城ときたら、次はやっぱり小沢原合戦でしょう! 上杉さんは北条氏の圧迫で相模を失い(某略により相模、糟屋で家宰太田道灌を謀殺したのが悔やまれるがあとの祭り、そして高輪原で氏綱に破れ同時に牒略により江戸城をも失い これでは権威も家臣も無くなってしまう!? っと考えたかどうか・・・そこで上杉朝興さんは起死回生の一戦に望みました。享禄3年(1530)に川越城から大軍をもよおし北条方の地を蹂躙しめはじめました。(江戸城、世田谷城、小沢城 辺りを攻めたらしい?) もちろん北条さんも黙ってはおりません、二代目当主氏綱は嫡男氏康を初陣にだし、且つ大将の重責を負わせ出陣させ乾坤一擲の勝負にでました。氏康の 乳母の子 志水小太郎(清水?)や合戦地に明るい万福寺(麻生区)の住人、中島隼人佐らを引き連れ合戦にのぞむ。 *注! ここからは個人的な想像 隠れ谷戸までは、合戦場といわれる金程1丁目から南に1km離れています、数にものをいわせて襲い掛かる上杉軍に対して退却とみせかけて谷戸に引き込み、長く伸びてしまった上杉軍をの横合いを伏兵でついたのではないか?オマケに狭い谷戸のため兵が多ければ多いほど混乱に陥ってしまったと読んでいるのですが、さらに小沢城からの出撃があれば挟撃の恐怖から総崩れ なんてコトも・・・上杉軍が小沢城を攻囲中に、その場から有利な合戦地に誘い出し、秘策を用い叩く! って桶狭間や長篠の戦いみたいでワクワクしますね~! <-妄想
勝坂 地図:16才の氏康は坂を駆け上がり勝った!勝った!と叫んだそうです(麻生区千代ヶ丘5丁目)
隠れ谷公園 地図:この辺に伏兵を待機させたらしい
膳部谷戸 地図:炊き出しを行ったところ
細山資料館 地図:合戦資料はありませんが、100年程前の地形模型があります。
* 新編武蔵風土記稿巻之五十九に小沢原古戦場がみられる。
* 古沢に陣川とゆう名の川がある。
* 万福寺には寺があったが廃寺になったらしい。新百合ヶ丘駅入り口交差点は以前万福寺交差点だったような記憶が・・・?
* 新百合ヶ丘駅入り口の辺りは矢崎(矢先)といわれている場所は矢が飛んできて地面に刺さったとゆう伝承があります。注:源義経の家来亀井六郎重清の的場伝説もあり2011/5/8。
* いまでも中島隼人佐の末裔の方が住んで居られる。
GoogleMapの画像の「百合丘」駅は「新百合丘」駅の間違いです!
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